カトリックでは11月は、「死者の月」と呼び、本日11月1日の「諸聖人の祝日」そして翌日の「死者の日」に続き、来世のことを考えさせられる月となる。
若い頃は、死や来世のことなど考えることはなかった。(しかし今の日本の若者は4人に一人が死について考えたことがあるという。)そして、現在は何ひとつ悩みなどないとはいえないが、人生の後半に入り、知人、親類の死を通し、また健康面、生活面云々で徐々に人生の儚さを感じるようになる。
ところでこの四連休中に空手仲間のF爺のお宅に友人とお邪魔してきた。彼は現在84歳の現役の門下生。今月初段審査を受ける予定である。
実は、51年前に他流で初段の審査を受けているのだが、いろいろあって審査を受けたまま退会。私が入会した2015年の半年後あたりに入会。当時奥さんがたまたまた出会った日本人に声をかけられたことがきっかけだったらしい。
彼よりも一回りも若かった奥さんは、昨年の秋、ある病気であっという間に他界。それ以降彼は、悲しみにくれ、見る見るうちに痩せてしまった。生憎子供はおらず、頼れる親類もなく、本当に孤独な晩年となってしまい、稽古中涙することも多い。
毎回彼の話を聞いてあげることしかできないが、私の他にも彼に電話をしたり、気にかけている人がいて今回彼女から声をかけられ、F爺のお宅でお茶をごちそうになることになった。
彼はもと整体師だったので、まだ奥さんが健在だったころ、2度ほどお宅にお邪魔し、診察を受けたことがあるから家は知っていた。彼は家のすべての部屋を案内してくれた。
男やもめ に蛆がわき 女 やもめ に花が咲く
一般的に妻を失った男ほどみじめなことはないという。上記は、身の回りは、家事に手が回らず不潔になるが、それに比べて女やもめは、夫の面倒を見なくてもよく、その分だけ身奇麗になり、周りの男も放っておかないからうわさも立って華やかになることをいうことわざだが、F爺の家は、それはそれは綺麗に片付けられており、バルコニーは素足のまま、外に出ても全く問題ないくらい綺麗になっていた。また植木の手入れも綺麗に施されていた。とはいえ、いくつかの鉢は重ねて置かれていたので、奥さんがいらしたら、どんなにもっと植物を育てておられたことだろう?と想像する。
とても美しく、声も綺麗な方であったと記憶している。寝室は奥さんが寝ていらしたところに骨壺が置かれていて一瞬はっとしたが、彼女の写真があちこちに貼られ、彼女との思い出がいっぱい詰まっている、というよりも今でも彼女と一緒にいるのだろうと瞬時に感じた。
彼らがいかに電撃的に出会い、結婚をしたか、もう何度も何度も聞かされて来ていたが(きっと私の親のなり染め以上聞いていると思う)今回彼女との初対面の日の写真を見せてもらった。
今、彼が抱えている健康面での問題なども聞いている門下生は多いが、深刻な問題の中、彼がいかに不安か、それでも奥さんとの約束を果たさなければならないという使命感もまた何度も聞かされた。
まずは、黒帯を取得して奥さんに捧げること。そして彼女の権利があるお金が遺産として入ったら、生まれながらに病気を抱えている子供たちを助けてあげるのは、彼女との約束なのだ、という。他にも整体師であった技術や知識を使って空手教室では子供たちを見ていきたい…などと夢と語ってくれた。
普段の私であったら、もう涙でボロボロになってしまうのだが、彼の話を聞いている時は、なぜか毅然としていられる。私が泣いてはいけないし、彼を励ますためにも、ただただ笑顔で聞いてあげたい。
「死」とは何なのだろう?とよく考える。この世の別れにすぎないものか?そうではないだろう。死は別れではあるけれど、大切な人にとっては生き続ける。
一度は死を考え、気づいたらバルコニーの柵を超えていたことがあるという。けれど、奥さんと私も偶然知っていたある修道士(悪魔祓いの司祭)が彼の首根っこを引っ張り家に戻されたという。これを信じるか否かは人によるだろうが、その修道士は亡くなって既に10年以上経っているのだが、奇跡を起こし続けているという。
