夏休みを目前にし、今日4人の黒帯の昇段審査が行われた。
一人は、初段。二人が二段補。そして一人が三段補。
初段審査を受けた子は、まだ14,5歳だろうか?私が入会した時には既にいた子だったが、なかなか伸び悩んでいる子だった。ノーヴァックスで、昨年道場が再開しても稽古に出てこられず、師範とプライベートでの個人レッスンを受けていたようだった。
初段審査は気になるところはかなりあったものの、過去の彼とは比べ物にならないほど型はよくなっていた。まあ黒帯はゴールではなく、これからが出発点だ。これから精進していけばいいだろう。
しかし、4人の審査が終わってから師範のお話はかなり厳しいものだった。初段審査を受けた彼は、この日のために型の間違いや癖をかなり修正してきたが、当日になって戻っていた。それはなぜか?身についていないからだ、ということだった。
大会のために親子型なり、友達型で、自分よりもレベルの高い人と組んでかなり上達した!と思っていても、大会が終わった途端に元のレベルに戻ってしまう人をどれだけ見てきたことか…それはやはりその型が身についていないからなのだろう。
初段と二段補、二段補と三段補。かなりレベルの差を見た。それこそ、練習量、経験の違いであろう。しかし、どんなに段位が上がっても、型が身についていなければ、それは型を覚えたという記憶力の問題で、技の精度ではないということになってしまう。(それこそ自分はまだまだだと反省)
まさに、鍛錬。つまり、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」by宮本武蔵 だ。
その言葉の通り、千日の稽古で技を習得し、万日の稽古でその技を練り上げる。転じて、一つの技を完全に自分のものにするには、ひたすら毎日繰り替えし稽古に励むしか道はないということだ。
世阿弥の風姿花伝に「稽古は強かれ」という言葉があるが、まさに稽古あるのみ。
また同花伝書の第一章を、「年来稽古条々」と言うが、この本来の趣旨は、年齢に応じた稽古の仕方を示すものであるという。人生を7つの段階にわけ、年代ごとにどう対応していったら良いのかという観点や、年齢を経ていくことにも言及しているのだが、私が空手を始めたのは、49歳。そして既に50半ば。世阿弥曰く『老年期』だ。苦笑
ちなみに世阿弥の言葉に「時分の花」と「まことの花」という言葉もあるが、人間の成長を花の成長、自然の中のプロセスと重ねており、「時分の花」とは、年齢とともに表れ、盛りが過ぎると散ってしまう花。一方、「まことの花」は、稽古によって得られる消えることのない花、と上記花伝書にて綴られている。
空手でも、帯の色、年齢に見合った稽古と工夫によって初めてまことの花を咲かせられるだろう、という思いがある。
また上記三段補受審者ははれて「師範代」となった。段位とは型や技のうまさも去ることながら、風格、人格も求められるものだと改めて思った。
初心忘れるべからず。日々精進。

