人間観察 ~ その3 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

いつからか人間観察が趣味のようになってしまった。

 

常に第三者、外野というか観客のように見ている自分に気づく。

 

たぶん、人間が好きだからなのだろうが、行動している人や、話をしている相手の好き嫌いや、興味、こだわりなどを考えながら相手を見ているのだ。

 

グループでいるのも嫌いではないが、1人でいるのも意外に好き。

 

じっとしていられない性格であったが、このコロナ禍でそうも行かずじっとしながら頭を空っぽにさせていると、あれよあれよとまたいろんな思いや考えがあふれ出てくるのだ。(大抵は堂々巡りなのだけれど。苦笑)

 

それでも最近は、「思いこみを排除して目に見えるものだけに着目する」ようにしている。やはり、先入観や思い込みにとらわれると、見方が偏りがちになり、判断を誤るのではないか?と思われる。(もちろん、人は多面性であり、目に見えない部分が重要だったりするわけで、相手の気持ちを汲めることも大切なのだが)


とはいえ、日本に来て思うことは、コンビ二、病院、役所...(私の行動範囲内での話しだが)そこでの接客というのは、なんだかあまりにもマニュアル化しているな...と思うこと。

 

マニュアルは、教え漏れや、教え方の偏りを防止し、誰が誰に教えても同じ質の教育ができるようになるわけだが、ぺらぺらよく説明してくれるのはいいが、どうもロボット相手、というか”感情”を感じられないのだ。しかもあまり人の目を見ていない人も多いし、見ていても目が笑っていない。逆にじっと見る私が不気味に思われていることだろう。爆

 

それさあ、お客様の目線に立ってる?言っている意味、頭で考えてる?一期一会の意味、知ってる?いちいち茶々を入れたくなってしまうのだ。

 

人生の半分がイタリア生活になってしまい、中途半端にイタリア人化しており、日本では十中八九、自分が浮いていることは承知している。苦笑 

 

しかし、それはイタリア生活が長くなったからか?、それとももともと私の性格だか人間性なのかは分からないが、違和感...と思ってしまったり、回りの日本人の言動がどうでるのか?じっくり観てしまう癖が出来てしまった。それを自由と言うのか?達観しているというのか?または諦観なのか?いずれにしても、自分自身、それを面白がっているのだけれど...

 

日本では『空気を読む』ことができないと生きづらい。けれど、空気を読みすぎる場にいても、面白くないんじゃないの?日本人のコミュニケーション文化には、相手の心の裏を読む「深読み」の影響もあると思うが、相手を疑うような「深読み」はしたくないものだ。

 

人間観察二スト、人が楽しい。じーっと見てたらごめんなさい。苦笑

 

 

 

人間観察

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人間観察 ~ その2

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