緊急事態宣言が出た翌日、スーパーへ買い物に行くと、意外にキャッシャーの列はがらがらであり、驚いた。
今回の新型コロナウイルスの件では、”ソーシャルディスタンス”という言葉をよく耳にするようになった。イタリアを始め、多くの外国では、開いているのはスーパーなど食料品を扱う店と薬局のみ。店内には入場制限があり、入るために長蛇の列となり、そのためのアプリさえあり、住所をいれると、どこそこのスーパーは、入るために何人待ちで、どれくらい待つかがわかるという。
WHOも”ソーシャルディスタンス”の重要性を訴えている。誰かが咳やくしゃみをすると、ウイルスが含まれている可能性があるため、鼻や口から噴霧することになる。近づきすぎていると、咳をしている人が病気にかかっている場合、新型コロナウイルスを含む飛沫を吸い込む可能性があるから、距離をおき、またマスクをしようということなのだ。1-2メートルの距離はとろうというもの。テレビ番組では出演者たちがまばらに距離を空け、または自宅からの中継が目立つようになってきた。
ところで、父が他界してちょうど1ヶ月。そして私も急遽帰国し、家族とはなれて1ヶ月となった。
毎日家族とは、wharsAppでやりとりしているが、どんなに私が言っても綺麗にならなかった子供たちの部屋がだいぶ綺麗になっていた。また、家事の役割分担を訴えても、ママが家にいるならママの仕事...と平気でいう子供たちだったが、ずいぶんしっかりしてきたようだ。午前中はオンライン授業もあるので、各自勉強しているという。よい成績を取った時だけ報告してくる。(現金だ!)
週末さえも出張が多く、不在がちだった夫は、四六時中子供たちと一緒で、やれ誰それが言うことを聞かない。やれ誰それはマイペースだと言ってくる...普段の私の苦労がわかるだろうか?苦笑
今この、この緊急事態という非日常生活の中で、小さな子供を抱える家庭も大変だが、思春期の子供を抱えた家庭での引きこもり生活も何かと葛藤が大きいものだと思う。自分の時間や空間を分かちつつ、いかに妥協や赦しあいを通じ、精神的自立をするか...
また、物理的に「距離」を置くことで見えてくること、感じてくることもあるだろう。そういう意味では、私にとっては、今家族と離れることで、「リセット」にもなっている。自分を見つめ、自分を顧みることで改めて感じること、理解できること...などがある。
今まで至近距離で見えなかった人の有り難さ。物事の裏表。良いこともあれば悪いこともある。今まで気に食わなかった、嫌いだ、といって排除していた物事をいろいろな角度から眺めることもできる。
さすがに何もかも制限がつき、逆に急いでも仕方ない。焦っても仕方ない。このコロナの終息後の生活はまったく想像も付かない。下手したら帰国せねばならないことさえありうる。そこまで来てしまうと、嘆いても仕方なく、今この状況を生き、そして生き延びようと切に思うのだ。
距離を置くことで湧いてくる新たな感情、新たな思考、新たな希望、新たな絆...精神論だけで生きてはいけないという人もいるだろう。しかし、恵みの数だけ数えていきたい。今の状況の中でも、どれだけ沢山の恵みが与えられていることか…大切なものは何か、生活を見直すチャンスなのだと思うのだ。
「私たちは人々が物理的な距離を保ちながら、同時に『社会的に』お互いの近くに居続けてほしいと願っている」。
適度な距離の人間関係というものもある。付かず離れず。それでいて、ふとした時に手を差し伸べ合うことのできる距離の人間関係だ。
相手の深い部分を理解するほど 好意と信頼を得られるが、 深く進むためには徐々に信頼を積み重ねて 、相手の許容範囲を広げていくことが必要となる。
「距離」感、大切ですね。
ミラノの日常 「距離」を空ける大切さ
