座禅 〜 心のデトックス その3 ろうそくの灯り | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
 
 
「華厳の陣」が終了し、座禅が行われた。
 

約20分、道場の電気を消して、ろうそくの灯りのみを見つめる。無心になるように!雑念が次から次へと湧いてきたら、ゆっくり数を数えればいい、と初めに師範から話があった。

 

ゆっくりろうそくの灯りを見つめ、自分の呼吸のみ意識すると、意外に頭から曇った霧のようなものが消えるものだ。

 

ところで、カトリックのミサの祭壇には、ろうそくはつきもの。ろうそく台は、崇敬と祝いの喜びを表し、特別な思いを込めて注目し、喜びを共にする、そのしるしとして輝く灯火を置くものらしい。ちなみに、歴史的事実として祭壇にろうそくが置かれるようになったのは、12世紀頃の中世ヨーロッパにおいてのことであり、ラテン語を解しない一般信徒に対して、ミサ(”最後の晩餐”を再現)の内容をなんとか理解させようとさまざまな工夫を凝らしたその一環だったという話し。

 
また、仏教用語に「自灯明」「法灯明」という言葉があるそうだ。お釈迦さまがご往生を迎えられた時、弟子たちに「自らを灯明とし、自らを頼りとして他を頼りとせず、法を灯明とし、法を頼りとして他のものを頼りとせず生きなさい」といって諭したのだという。つまりろうそくに灯りをつけることは、この「自灯明」「法灯明」の教えを思い出し、大切にすることを誓う意味があるのだそうだ。そして、ろうそくの灯りは、灯明と呼ばれ、明りが闇を開くように、煩悩によって覆い隠された心の闇を仏の正しい智慧によって明るくするという意味があるという。
 
時に、人の一生はろうそくに例えられる。自らを燃やし、蝋が溶ける。そうやって自分はだんだん小さくなりながら、光を出して周りを明るくしていくのだ。蝋がなくなってしまえばこの光もなくなってしまう。自ら燃えることで、周りを温める。人間とて同様なのだ。燃えて熱くなるのは一瞬ではなく、ろうそくのようにできるだけ長く燃え続ける必要がある。物事を成すのにも、長い時間の継続が必要だ。
 
座禅の前日、教会の黙想会があったが、静かに集中しようとすると思い切り寒いのに、なぜかウトウトしてしまった。しかし、座禅でろうそくの灯りを見つめていたら、眠くなるどころか、その優しく揺らぐ炎は、まるで意思を持って動いているのかと錯覚するほどだった。ろうそくの炎は時に揺れ、時に止まる。炎が揺れると影が濃く、はっきり見えた。これが自分の姿なのか?
 
見つめているだけで、雑念は消え、たった20分だったとはいえ、心が軽くなった。心のデトックスとして座禅は時に必要だ。
 
ろうそくの灯りを見つめ、静かに燃え続け、周囲に明かりを灯し、温かい気持ちにさせる人になりたい、と思った。