あしあと | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

「あしあと」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

 

『あしあと』マーガレット・F・パワーズ著 松代恵美訳  (財)太平洋放送協会

 

 

イタリア生活も長くなると、いろいろな交流絡みから、なにかと葬儀に参列する回数も増えてきた。下手したら、以前日本で参列したことのある仏教の葬儀の回数を超えるかもしれない。 

イタリアの葬儀は、殆どカトリックの教会で行われ、それ以外で参列したことはないのだが、葬儀は、通常のミサのように、司祭によって司式され、お説教もある。近親者による亡くなられた方への手紙や挨拶がされることもあり、その方の存命中の人柄を知ることもできる。 

日本では様々な理由で家族葬の増加傾向があるようだ。身内だけで静かに葬儀を行いたい、形だけ盛大になりがちな一般葬は控えたい…。周囲は遺族のこんな願いや本意を汲み取って、理解を示すことが大切なのかもしれないが、やはり一人でも多くの参列者がいて心のこもった声を掛け合ったり、涙を流す人がいる葬儀をみると、亡くなられた方の人生を思い、そしてそれを通して自分自身「生きる」という意味を考えるのだ。

 

ここでは、直接知り合いでなくても、友人、知人の⚪️⚪️の葬儀、と聞くとなるべく参列するようにしている。変な話、日本のように、お香典やらお返しも関係ないので気を使うこともない。
 

今回、聖歌隊のメンバーのお姑さんが亡くなられたのだが、奥様も教会の役員であり顔見知りなので、教会のメンバーもかなり参列していたが、聖体拝領の際は、私たち教会員以外はほとんど聖体拝領に並ぶものはいなかった。それが教会の現実である。

 

ところで、ミサの中の答唱詩篇では下記、詩篇103:8-18が読まれた。答唱詩篇とは、ミサの中にある聖書朗読の一つで、詩編による黙想である。詩編本文は、聖書朗読なので、通常一人の先唱者が朗読台から朗読または先唱し、一同は黙想として、朗唱する。何よりも、大切なのは聴いて祈るということ。心を合わせる。

 

103:08 主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。

103:09 永久に責めることはなくとこしえに怒り続けられることはない。 

103:10 主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなくわたしたちの悪に従って報いられることもない。 

103:11 天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。 

103:12 東が西から遠い程わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。 

103:13 父がその子を憐れむように主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 

103:14 主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。 

103:15 人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。 

103:16 風がその上に吹けば、消えうせ生えていた所を知る者もなくなる。 

103:17 主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり恵みの御業は子らの子らに 

103:18 主の契約を守る人命令を心に留めて行う人に及ぶ。

そして、第2の福音はエマオへ旅人に同伴するイエス (ルカ 24:13)であった。復活したイエスがエルサレムからエマオ途上の弟子たちに現れる話なのだが(詳細はこちら:https://biblelearning.net/news_etc/聖書の世界に生きた人々12%E3%80%80エマオ途上の弟子/ )彼らがエマオに向かう光景は人生の旅路・信仰の旅路などを共に歩む人間の姿を象徴しているように見える。

 

私たちは苦しい時、ついつい目に見えるものに頼りがち。けれど、目に見えないものが共にいて、支えられている、ということがあると思う。

 

キリスト教の信仰とは、復活した主が、共にいてくださると信じながら、信頼し、その主から力をしっかりといただいて生きること。

 

聖書は、私達が母の胎にいる時から、私達一人一人を背負っておられると、言っている。背負うというのは、もちろん、比喩的な表現だが、母が愛する子をおぶるように、神は私達を、背負って運んで下さる。私達が、若くて力のある時だけでなく、重荷に疲れて歩けなくなった時、私達をただ、遠くから見守っていて下さるだけでなく、私達を背負って運んでくださるのだと確信した。

 

 

 

 

 

 

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12446139726.html