義務教育最後の教科書 〜 道徳 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

今年度日本では中3の年齢となる次男。先日領事館から連絡が入り、教科書を頂いてきた。義務教育最後の教科書。

 

昨年も書いたが、在外邦人(日本国籍を持つ)の義務教育学齢期の子女は、日本の義務教育教科書の無償配布を受けられる。これは本当にありがたいこと。

 

子供の頃、新学年の初日登校日には新しい教科書をもらい、ウキウキしたものだ。びしっときれいに製本された教科書から何気に香るインクの匂い。背筋が伸びる思いで、すぐに名前を書いてカバーをしたものだ。今回も思わず匂いを嗅んでしまった。

 

ところで、本日2019年4月1日学校教育法などの改正に伴い、学習者用デジタル教科書が制度化されることから、教職員などに向けた実践事例集をWebサイトで公開されるようになった。学習者用デジタル教科書の効果的な活用のポイントや学習効果を高める工夫について,デジタル教材や他のICT機器も活用した授業展開を例示しながら紹介したものだという。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/seido/1414989.htm

 
「デジタル教科書」とは、まさに紙の教科書の代わりとなる教科書で端末機が必要となるのだが、内容に関しては保証され、それに加え、デジタルならではの機能を有することが求められている。とはいえ、デジタル教科書を使うためにはクラスで「1人1台の端末」の条件をクリアしなければならないし、無償給与される紙の教科書と異なり、端末購入には自治体の予算が必要となる...児童生徒各自がタブレット持参というわけにもいかないし、数人で1台では、集中はできない。個人的には教科書も辞書も”紙”がいいなあ...。
 
...と話はずれたが、現在の子供達が社会人となる2030年代、社会の変化は加速度を増し、複雑で予測困難な世の中になることだろう。そんな社会の変化にいかに対処していくか...受け身であると生きていくには難しい時代だ。
 

欧米の研究者によると、将来子供の65%は、現在存在していない職業に就くことになったり、今後10~20年程度で現在の仕事の半数近くが自動化されたり、人工知能に取って代わられたりするという「未来予測」もなされているという。つまり、現在の学校での学びが、はたしてこれからの社会で通用していくのか、これが大きな問題。

 

学力だけが全てではないが、実際学力格差は認めざるを得ないだろう。では学力の低いの子供をいかにすくい上げていくか...これはイタリアでも問題だ。ドロップアウトした子たちを放っておくわけにもいかぬ。

 

都心だと中学受験も多いし、2018年の大学•短大進学率は過去最高の57.9%だったという。(個人的にはもっと高いかと思った!)

 

新しい学習指導要領では,こうした時代の流れの中で,子供一人一人が未来の創り手として,決まった答えのない課題に積極的に取り組み、試行錯誤しながら新しい価値を創造できるよう目指しているというが、勉強、勉強もいいが、心の教育も必要では?と思い、何気に「道徳」の教科書を手にしてみた。

 

心身ともに成長が著しいこの時期は、人間の成長期の中でも非常に重要な時期と言える。その時期に道徳的価値について考えるということは、その発達段階を考慮する必要がある。

 

ところで、小中学校では「道徳の時間」が週1回、教科外活動として設けられていた。2015年に学習指導要領が一部改訂されると、道徳は「特別の教科」(道徳科)として位置づけられるようになり、新たな学習指導要領は、小学校では2018年度から、中学校では2019年度から全面実施されることになった。

 

道徳が教科化に至った背景はいくつかあるが、その中でも大きいのが、松野博一・文部科学大臣(当時)の言葉を借りれば「いじめに関する痛ましい事案」だという。

 

>これまでの道徳教育は、読み物の登場人物の気持ちを読み取ることで終わってしまっていたり、「いじめは許されない」ということを児童生徒に言わせたり書かせたりするだけの授業になりがちと言われてきました。
現実のいじめの問題に対応できる資質・能力を育むためには、「あなたならどうするか」を真正面から問い、自分自身のこととして、多面的・多角的に考え、議論していく「考え、議論する道徳」へと転換することが求められています。(引用元:文部科学省|いじめに正面から向き合う「考え、議論する道徳」への転換に向けて(文部科学大臣メッセージ)について(平成28年11月18日))

 

ちなみにイタリアの学校教育では宗教(キリスト教のみ)は任意であり、「道徳」というクラスはない。しかし、(これは日本の場合→国家が学習指導要領によるものとして)特定の価値観を「正しいもの」として設定し、子どもたちに提示するという内実を有する道徳教育は、「正しい」とされた特定の価値観を受け入れない子供への事実上の不利益評価をもたらす恐れがあり、国家による子供達...に対する特定の価値観の受け入れを強制するものになりかねない、という懸念もある。

 

何をもって道徳とするか、どう教えるべきかという基準は、時代や地域、そして個人によって異なっていると思うが、普段から物事に疑問を持つこと。そして「答え」を出すよりも以前に考える柔らかい頭が必要なのではないだろうか?

 

疑い、問い直すこと...それは、いわば思考の原点。また、それは確かなものを見つけ出すための過程で必要なものであり、そのプロセスを踏むことで多様に思考し、思考の幅を広げるという大切な意味を持っている。

 

私は受験のための詰め込み式勉強よりも、日々起こる問題にどう対処するか、自分の頭で考え、自分の言葉にすることが大切だと思う。自分の中で生まれた「疑問」や「問い」、そして自分なりの「答え」を「思考の過程」にそって相手に伝える...。そういう意味では道徳の授業は、将来世の中に出た時、いい訓練になるのではないか...と期待しているが、どうなのだろう?

 

「みんなの道徳」

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12416938055.html