ミラノ再発見ツアー 〜 San Fedele その3 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

知り合いの日本人シスターをミラノ観光にお連れした。
 
ミラノ観光といえば、ドウモ、スカラ座あたりを回るのが観光のメインだが、やはり日本のガイドブックには載っていないような場所へお連れしたい。しかも相手はカトリック信者であり、シスターである。気合を入れて一日ミラノ観光へ出かけてきた。
 
まずは、サンタンブロージョへお連れした。ドウモのミサは荘厳ではあるが、どうも教区教会のような短な雰囲気が感じられない。そういう意味ではサンタンブロージョの方が、地域的には多少スノッブではあるが、子供達のカテキズモも行われており、家族的雰囲気が感じられる。実際「主の祈り」の際、カテキズモの小3,5年生が祭壇に上って共に祈った。
 
ところで、シスターは今日の福音を予習されて来られたが、ミラノのアンブロジアーノ典礼のことをご存知ではなく、ローマ典礼とは内容が違い非常に驚かれていたと共に、多少ご説明を差し上げたところ、非常に関心を持たれていた。また、ミサの後に、教会地下のクリプタを見学していたのだが、その間に次のミサが始まっていた。ラテン語での司式で聖歌隊もラテン語ミサ専門の方々のようで、非常に荘厳であった。
 
その後、「最後の晩餐」のS.Maria delle Graziaへ。
 
 
 
中庭の回廊が非常に素敵。その後は、在ミラノカトリック日本人会がミサにあずかっているマリアバンビーナ修道院へ移動。午前中のミサはすでに終了されており、お昼休みで閉まるのでギリギリだった、15分ほど誰もいないお御堂に佇むことができた。
 
 
 
このお御堂には聖ヨハネ•パウロが81年に銃撃を受けた際、血だらけになった祭服から採取された血液が聖遺物として祀られている知る人ぞ知るお御堂。
 
その後、地域の教会で考古学的にも貴重な教会へ行こうとしたが、二つともお昼休みで入ることができず。そのあとミラノ大学、王宮を通り、ドウモへ。そしてスカラ座へ抜け、サンフェデーレ教会で数年前までは予約をしなければ見られなかった内部ツアーがツアーリングイタリアクラブに引き継がれており、入場券3ユーロでガイドがつきっきりで説明してくれた。
 
 
 
サン•フェデーレ教会は、イエズス会の教会で、ミラノ大司教区のカルロ•ボロメオ大司教によってペレグリーノ•ティバルディ氏に設計を依頼、1569年に着工。ミラノを代表する詩人アレッサンドロ•マンゾーニ氏も通っていたということで、教会前の広場には彼の銅像も設置されている。
 
内部は3年前に、在ミラノ婦人会のツアーで出かけているので、詳細は割愛する。
https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12117574156.html
 
何年も前からサンフェデーレには日本人の胸像があると聞いており、それが誰なのか知りたくて、いろいろ調べ、また多くの司祭に聞いてきたが、全くわからず。そして前回のツアーでそれが天正遣欧少年使節団(1582年•天正10年)のものだとわかった。
 
天正遣欧少年使節団は、イエズス会員•司祭であり当時イエズス会東インド管区の巡察師として活躍しておられたヴァリニャーノ神父の発案で、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として4名の少年がローマへ派遣された。当時13-14歳くらいであっただろうと言われる、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノが派遣され、1585年3月にヴァチカンで当時の教皇であったグレゴリオ13世との謁見後、5月にミラノも訪問している。日本を出たのは、1582年でミラノに到着するまでなんと3年もかかっている!
 
しかし、前回のツアーでは、司祭服や聖具が置かれているSagrestiaと呼ばれる「香部屋」の高い棚の上に胸像が8体あるのだが、イエズス会創始者のロヨラのイグナチオそして、聖フランシスコ•ザビエル。ルイジ•ゴンザーガ、フランチェスコ•ボルジア(イエズス会の福者)だが、日本人は3体と言われた。使節団は4名だったが、帰国して神学校に入り司祭に叙階したのは3名のみ。伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンが叙階し、ジュリアンが棄教を迫られ、逆さ吊りの刑にあい殉教している。千々石ミゲルは、棄教したばかりかキリシタンを弾圧する側に回ってしまった。では、残り一体は誰なのだろう?今回、ガイドさんに問い合わせたが、わからず。香部屋の責任者に問い合わせてくれたら、こちらの文書を見せてくれた。
 
 
 
8体の胸像は6世紀前半に尊者または福者となったイエズス会のものだということ。上記同様、ロヨラのイグナチオ。フランシスコ•ザビエル。フランシスコ•ボルジア。ルイジ•ゴンザガ。その他、日本の殉教者とある。つまり4名。千々石ミゲルが棄教したのは(棄教していなかった、という説もある)1601年なので、イタリアのイエズス会には記録されていなかったのかもしれない。
 
 
こちらは、1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画。タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。(京都大学図書館蔵)右上から伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父。ちなみに内部特別コーナーには1540~1550年代の印刷物もあった!!
 
ずーっと謎だったことがやっと解けた。知る人ぞ知る日本の偉大な功績である。
 
 
 
ちなみにこちらは、ドメニコ•ティントレットによる「伊東マンショ」像。
 
2009年、ミラノのトリヴルツィオ財団が、コレクション中の東洋風の青年が描かれた肖像画を調べたところ、カンヴァス裏面に「Mansio」、そして「1585年」と記されていることが確認された。以降、このことを手がかりとして約5年の歳月をかけて調査研究が進められ、この肖像画が天正遣欧少年使節の正使伊東マンショを描いたものであることが発表され、日本にも2014年に「伊東マンショ肖像画発見」のニュースが報道された。2年前の2016年、日伊国交150年を記念し、東京と、使節団が1582年に出航した長崎と、伊東マンショの生まれ故郷である宮崎の3箇所で世界初公開をされている。
 
さて、こちらは正面祭壇裏にある司祭たちが座る椅子(これは、スカラ座が劇場になる前にあったスカラ教会から運び出されたもの)の上には、デビッド•シンプソンの抽象画が3枚。(金色が「父」(天の父、つまり神)を示し、真ん中の赤は「子」、つまりイエス、血と愛を示す。右側の青は、「聖霊」を示すという。)この椅子も1500年代に作られたもので、画像ではよく見えないが、背もたれの部分に一つずつ異なる教会が彫刻されている。
 
 

 

とにかく、見るもの見るもの、1500年代のものと近代ものが混ざり合い、イエズス会のあり方を垣間観た気がした。

 

その後、先日出かけたサン•マウリツィオ教会に出かけ、シスターは大喜びであったが、私としてはこのサンフェデーレに再び感動した。有料とはいえ、お手頃な値段で、しかもガイド付きで素晴らしい宝を見ることができる。信者であろうが、なかろうが、是非是非見に行っていただきたいと思う。

 

明朝帰国されるシスター。空港出向かけから、数回お手伝いでお会いし、沢山の事を語り合った。出会いに感謝である。