ミラノ再発見 〜 サン・マウリツィオ教会 その2 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

イタリア語学校の課外授業でサン•マウリツィオ教会に出かけてきた。

 

結局、来られない人が続出し、教師1名、生徒7名のグループで出かけてきた。

 

教会の正式名は、San Maurizio al Monastero Maggiore。<マッジョーレ修道院付聖マウリツィオ教会>だが、そもそも、サン•マウリツィオって誰だったんだ?といきなり思い出し、教会内にいらしたガイドさんへ質問。

 

286年、古代ローマのテーベ軍団長であった聖マウリティウス(マウリツィオ)を中心としたキリスト教徒のみで編成されていた一団は、アフリカからガリア地方で起きた反乱を鎮圧するために進軍。しかしスイスのアゴナムにて、偶像に生贄を捧げることを拒み、マクシミアヌスの怒りに触れ上司のヘラクレスの命によって全軍団数十名が虐殺され殉教。マウリティウスは聖人となった。

 

 

 

ちなみに画像は、エル•グレコによる『聖マウリティウスの殉教』。

 

ついでながら、スイスのサン•モーリッツとは、聖マウリティウス、つまりサン•マウリツィオのことで、上記軍団が殉教したアゴナムは以前の呼び名だったとか...。

 

サン•マウリツィオは兵士、軍隊、騎士修道会、馬、織物職人、染色職人、オーストリア、ピエモンテ、サヴォア、サルディニアの守護聖人。

 

ところで、サン•マウリツィオの横には、考古学博物館(旧マッジョーレ修道院)が隣接しているが、その裏にはローマ時代の城壁とその城壁の塔が残っている。ミラノはローマ時代、城壁に囲まれた都市であったが、旧修道院内に遺跡があるということは、その場所が当時のミラノの西端の城壁に位置していたことがわかる。

 

 

 

また旧修道院の南側にはチルコ(競技場)があったようだが、その一部の土台がチルコ通りに残されている。サン•マウリツィオのガイドさんが教えてくれたが、どこのガイドブックやサイトにも載っておらず、それは知る人ぞ知る遺跡のようだ。

 

こちらは内部。今でこそミサは行われていないが、こちら側が一般信者用のお御堂で、このフレスコ画の向こうが側、修道院であったり、天井は繋がっているので、ミサの内容が聞こえてきたようだ。

 

 説明する教師とクラスメートたち。アラブ人女性はチュニジア人、モロッコ人にスーダン人。エジプト人のキリスト教徒(コプティ)の人たち。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は旧約聖書は一緒なので、後から出てくる旧約聖書に関する壁画(「アダムとイブ」や「ノアの箱船」には共感していたようだ。

 

 

こちらは上がパトロンのベンティボーリョと聖ベネディクトと聖ステファノ。見えないが聖ヨハネ•バッティスタも描かれている。また、下は、ベンティボーリョの妻、イッポリータと聖アグネス、聖スコラスチカ(女子ベネディクト会創始者)(と聖カテリーナ)。

 
 
こちらは修道院側。
 
 
 
左側から聖チェチリア。聖ウルスラ。聖カテリーナ。聖アガタ。
聖カテリーナと聖アガタの間には聖櫃があり、そこにご聖体(パン)が保存されていた。また、聖チェチリアと聖ウルスラの間には、反対側のお御堂から繋がっている扉があり、そこからぶどう酒とカリスが出てきていたそうだ。
 
 1554年製のオルガンと聖歌隊席。
 
 「最後の晩餐」
 
 「ノアの箱船」
 
 一番上、左から「東方博士の礼拝」「カナの結婚」「主の洗礼」
 
 「アダムとイブ」
 
その他、イエスキリストの受難から復活までの絵がどっぷり。もうお腹いっぱいである。苦笑
 
さあ、これからこの課外授業の感想文をイタリア語でまとめないといけない...
 
 

 

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12447223238.html