昨夜空手の稽古のあと,師範から珍しくお説教があった。
日本では一般的に空手をやっている人は学業の成績も良い。もちろん、全員が全員ではないが、やはり忍耐というものが身に付いている人は、勉強もそれなりに頑張れる力があるというのだ。他の人が夜の9時、10時まで勉強していれば、空手をやって帰宅してから人の1、2時間多く勉強する。けれど、勉強してます!という態度ではなく、涼しい顔をしていろ、と言う。まあイタリアの高校卒業試験のマトウリタは長女の時は大変だったけれど、日本の受験に比べどうだといえるのかどうかは、なんとも言えない。ただ、言えるのは、日本だと試験の時期、受験の時期にまとめて勉強をする人が多いが(しかも詰め込み式)、イタリアの場合は日々の勉強がものを言うし、筆記よりも口頭試験が多いの で、準備の仕方も全く異なる。常に自分の考え、意見が頭にないと話にならない。
ところで、文武両道とは私も何度も使ってきている言葉だが、単に学業とスポーツの両方に秀でる人を評する言葉なのだろうか?
調べてみたら、本来は「上に立つ者の心得」「力・武器を持つ者(武士)の心得」として
『人の上に立つ者は、それに相応しい‘文事’と‘武芸’の両方を修めなければならない』
と云う『教え』の言葉だったという。古くは史記に「文事ある者は必ず武備あり」と記され、文武は一体で偏ってはならないとされ、日本では、源頼朝の鎌倉幕府から明治維新に至るまで武家政権が続き、武士たちは、政を執る者として、武芸と文事の両道が求められ、両道揃ってこその武士道となった。
近江聖人と称えられた江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹は、「文と武は元来一徳であって、分かつことができない。したがって、武なき文、文なき武は共に真実の文ではなく、武でもない。」と述べている。つまり、文事によって緻密な戦略を立て、その戦略に沿って武事を実践することが重要だということ。本来文と武は切っても切れない関係。
また「養生訓」で有名な福岡藩の儒学者、貝原益軒は、「武芸の直接の目的は、戦場の使、日常の使にあるが、究極の目的は、武徳の涵養にある。すなわち武芸により、心身を統治することである。」と述べている。つまり”武”は”文”であってこそ、初めて”武徳”となり、”文武一体”となる。
何れにしても、一日24時間。これは老若男女、それこそ国籍、宗教、貧富の差もなく皆平等。時間の使い方は皆それぞれ。「馬鹿と鋏は使いよう」というが、「時間と人生も使いよう」。アーモンドグリコのように「一粒で二度美味しい」生き方をしてみたい。
子供の頃、学生の頃、学業のみまたはスポーツや習い事のみ、一つに専念すればよい成績は出せるかもしれない。けれど目先ではなく、長い目で見て、子供たちにとっての文武両道は、とても大切な教え。決して一番になれ!とは言わないけれど、何事も偏りのない「中庸」が大切。そのどちらも芳しくない場合は(我が家の場合?!)、自主制とか時間に対する取り組み方に問題があるのだろう。
私たち武道を志す者は、『武芸と文事の両方を以って武道とし、文武共に修めなければいけない』と云う「文武両道」本来の意味を忘れないようにしよう。 押忍
黒田官兵衛「文武両道」の極意↓
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140119/lif14011923100018-n1.html
https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11964382612.html
