歴史もの
今年で31になる。
私の好きな坂本竜馬はこの歳でなくなっている。
ほかにも吉田松陰は30歳。
私がもっともすきな高杉晋作は27歳でしかない。
時代の違いはあるにせよ、考えさせられるな・・・。
ところで、司馬遼太郎の小説は、私に大きな影響を与えている。
塩野七生さんもそうだが、歴史ほど人間の幅を広げてくれるものもないであろう。
責任者のあり方についても示唆を与えてくれる。
責任者のタイプはそれぞれだが、殊に薩摩藩の伝統は参考になる。
責任者とは、読んで字のごとく責任を取る者である。
優秀な部下に仕事を任せ、やりやすい環境を整え、口は一切出さない。
万が一問題がおこれば、任命した責任者がさっさと腹を切る。
責任の取り方はいろいろあるだろうが、あるべき姿ではないか。
・・・
竜馬がゆく
坂の上の雲
世に棲む日日
これらは読みやすく、そして深い。
読んでない人は是非!
高杉晋作 辞世の句
おもしろき こともなき世を おもしろく ・・・
価値観の違いと責任者の器
国や企業・共同体の組織とは、人の集まりである。
人が何人か集まれば、当然一人ひとりの価値観も違うだろう。
当然、組織が目指す目的に向けて、組織の構成員がその方向におおよそあわせるほかはない。
たとえば会社。
自分にあった会社を探すというのはナンセンスだ。
自分が変化して、会社に合わせるしかない。
そもそも、その人のために仕事を用意するということはないだろう。
自分に能力があるからその地位にいるというのは思い上がりだ。
預かっているものだという認識を持つべきだ。
会社組織とはこういった前提のもとにある。
ただし、会社目的に関連しない場所で、その人の個人的価値観を否定するようなことはあってはならないだろう。
自分の価値観を押し付けるということはあってはならない。
お互い尊重しあい、考え方の違いがあることを認めるべきだろう。
それを押し付けるのは、先入観に基づくおごりである。
これが人種の違い、言葉の違いとなってくれば、衝突する場面が多くなる。
そういった違いを認め合う組織でなければ、優れた組織とはいえないであろう。
会社組織が大きくなるということは、人が増えるということだ。
人が増えれば十人十色で、考え方も違ってくる。
考え方が大きく違う集団であればあるほど、環境の変化にも対応するアイデアも豊富になる。
それを認め合う大きな器をもてるかどうか。
それが、責任者の直面する大きな課題である。
組織の目的と、その全構成員の調和。
責任者の器が問われる問題である。
ちょっと趣旨は違うが・・・好きなことば
武田信玄
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
(※自らを守るべき城や石垣に力を費やすのではなく、情けをもって人に費やすべき。)
変化について
前回養老さんの脳の話をしたので、ついでに
人間の脳(意識というはたらき)の癖に、私は同じだ、という癖がある。
人を構成する物質は、数ヶ月ですべて入れ替わるそうである。
つまり、皮膚でも骨でも神経でも内臓でも新陳代謝を繰り返しつつ物質的にはまったく違ったものに変化している。
であるのに、夜寝て朝起きたらやはり私は昨日と同じわたしだ、と言い聞かせる。
まあ、たけし君が今日からはすねお君だといわれたら、まわりは迷惑だろう。
社会が成り立たなくなる。
ただ、本質的には日々刻々人は変化しているものである。
10年前のわたしと今の私を写真でみればよくわかる。
変わっていないのは写真の『情報』であって、生身の『身体(自然)』は変化する。
世の中の情報もそれ自体はまったく変化しない。
ネット上の『本日のニュース』も消されない限り、2008年1月20日のニュースとして文字情報は何年たっても変わらないだろう。
しかし、実際のリアルな物、自然は常に変化している。
諸行無常である。
人の心も変化する。
ずっと同じと思っていた自分も変化する。
環境が変われば世の中の見え方も一変する。
極端な話だが、ガンの告知をされたとしたら、おそらくその直前の風景と、その直後からの風景の違いは歴然としていよう。
人格も同じだ。
ある環境にいる自分が別の環境にかわれば変化する。
人間は常に変化するのが本質だ。
要するに、ずっと同じ自分など存在しない。
それは脳が自分に言い聞かせているだけである。
社会的な要請で脳がそうさせているだけであって、本質として自分は常に変化する。
その変化を脳が認めないだけである。
いやおうなく自分は変化するのだから、行き詰っても悩むことはない。
またそこから変化するんだから。
環境がかわっても不安になることはない。
それにあわせてまた自分が変わればいいだけだ。
自分が常に変化するということをわかっていれば、人生悩む必要がなくなる。
何か困っても自分自身が変わるんだから。
私の価値感
いまさら自己紹介ではないが、私の一面を理解してもらいたいと思うので、すこし自身を反省してみた。
人、周りの環境、その他もろもろ・・・
歴史上の人物や、著名な作家、メディアの情報、ネットの情報、古典、宗教、国、地域、文化、伝統、人種、言語・・・
これらの影響をうけている。
ただ、考え出すと、自分自身でもわからなくなる。
ましてや、他人に伝えるのはもっと難しいことだ。
だから、分解して伝えるしかなさそうだ。
そこで、もっともはっきりするのが、【死】に対する考え方ではないか、と考えた。
そもそもついこの間まで、まともに、真剣に考えたことはなかった。
ただ、怖いものだ、考えないようにしよう、と。
今でも怪しいものだ。
ただ、親が倒れたとか、親族が身近な人が亡くなったとか、
様々な実体験から、直面するようになった。
そこで、ふと思いおこすのが、養老孟司氏の言葉である。
都市で生きる人々は、死そのものを避けている。
のみならず、人間が作ったもの以外すべて排除しようとする。
つまり、人間の脳が欲するもの意外は排除しようとする。
人間の脳が生み出していないものとは、自然だ。
たとえば・・・
石ころが転がっていれば取り除くだろう。
道路の真ん中に木があれば切るだろう。
ゴキブリがでたら、たたくだろう。
動物の死体が転がっていたら、捨てるだろう。
人の腕が落ちていたら、人目がつかないようしかるべき処置をするだろう。
人間の体も人が作ったものではない。自然だ。
老いるということも人の脳は制御できないから、病院か老人ホームへおくる。
病気も人が作り出したものではないから、病院へ送る。
死んだら、病院へおくって、火葬場で処理する。
子供は道路へ飛び出さないように、しつけを受ける。
死ぬということ自体、脳が作ったものではない。
脳=意識がおそれる状況である。
しかし、人間は眠るときに意識が切れる。
つまり、毎日意識の断絶を経験している。
だから、人間を無意識の状態と意識の状態をいったいで考えた場合、
恐れる必要なんてまったく無いと。
まさにそのとおりだと感心した。
ブッダの考えそのものだ。
都市をはなれれば、生老病死が現実としてある。
ただ、無闇におそれることは、なにもないと。
(※別に私は純粋な仏教徒ではない。)
自然に生きようと。
さて、ここまできて、まとめるのが面倒になってきた。
ちょっと飛躍するが、
人は必ず死ぬ。
常にその可能性はそばにある。常に現実としてうけとめる。
かといって無闇に恐れない。
時間は限られている。
人は社会のために生きている。
有る意味、自分ではなく、他人のために生きているともいえる。
意識だけで生きようとしない。
体という自然をフルに活用して、脳を鍛える。
日々修行だ。
こんなまとまりのないことを考えているのが、私の一つの側面だ。
よろしく!
ユリウス・カエサル
ローマ人の物語 塩野七生 著
また読み始めた。
カエサルが登場するところは何度も読み返している。
押し付けがましいが、読んでない人は読んだほうがいい。
ハンニバル戦記でもカエサル登場のところからでもいいとおもう。
カエサルは非常に魅力的で、私がもっとも好きな人物の一人だが、彼を一言で伝えるのは難しいだろう。
とても器が比較にはならないが、私は常に、カエサルならどうするか、考えるようにしている。
読んでない人は是非!!
以下、ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 上 冒頭より一部引用
イタリアの普通高校で使われている、歴史の教科書
『指導者に求められる資質は、次の五つである。
知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
カエサルだけが、このすべてを持っていた』
ユリウス・カエサル
『人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。』