私の価値感
いまさら自己紹介ではないが、私の一面を理解してもらいたいと思うので、すこし自身を反省してみた。
人、周りの環境、その他もろもろ・・・
歴史上の人物や、著名な作家、メディアの情報、ネットの情報、古典、宗教、国、地域、文化、伝統、人種、言語・・・
これらの影響をうけている。
ただ、考え出すと、自分自身でもわからなくなる。
ましてや、他人に伝えるのはもっと難しいことだ。
だから、分解して伝えるしかなさそうだ。
そこで、もっともはっきりするのが、【死】に対する考え方ではないか、と考えた。
そもそもついこの間まで、まともに、真剣に考えたことはなかった。
ただ、怖いものだ、考えないようにしよう、と。
今でも怪しいものだ。
ただ、親が倒れたとか、親族が身近な人が亡くなったとか、
様々な実体験から、直面するようになった。
そこで、ふと思いおこすのが、養老孟司氏の言葉である。
都市で生きる人々は、死そのものを避けている。
のみならず、人間が作ったもの以外すべて排除しようとする。
つまり、人間の脳が欲するもの意外は排除しようとする。
人間の脳が生み出していないものとは、自然だ。
たとえば・・・
石ころが転がっていれば取り除くだろう。
道路の真ん中に木があれば切るだろう。
ゴキブリがでたら、たたくだろう。
動物の死体が転がっていたら、捨てるだろう。
人の腕が落ちていたら、人目がつかないようしかるべき処置をするだろう。
人間の体も人が作ったものではない。自然だ。
老いるということも人の脳は制御できないから、病院か老人ホームへおくる。
病気も人が作り出したものではないから、病院へ送る。
死んだら、病院へおくって、火葬場で処理する。
子供は道路へ飛び出さないように、しつけを受ける。
死ぬということ自体、脳が作ったものではない。
脳=意識がおそれる状況である。
しかし、人間は眠るときに意識が切れる。
つまり、毎日意識の断絶を経験している。
だから、人間を無意識の状態と意識の状態をいったいで考えた場合、
恐れる必要なんてまったく無いと。
まさにそのとおりだと感心した。
ブッダの考えそのものだ。
都市をはなれれば、生老病死が現実としてある。
ただ、無闇におそれることは、なにもないと。
(※別に私は純粋な仏教徒ではない。)
自然に生きようと。
さて、ここまできて、まとめるのが面倒になってきた。
ちょっと飛躍するが、
人は必ず死ぬ。
常にその可能性はそばにある。常に現実としてうけとめる。
かといって無闇に恐れない。
時間は限られている。
人は社会のために生きている。
有る意味、自分ではなく、他人のために生きているともいえる。
意識だけで生きようとしない。
体という自然をフルに活用して、脳を鍛える。
日々修行だ。
こんなまとまりのないことを考えているのが、私の一つの側面だ。
よろしく!