大阪近鉄バファローズ
※1997年〜1998年は近鉄バファローズ
ホーム用・ビジター用 1997年〜2004年
略年表
1997年《ホーム・ビジター共通》大阪ドームに本拠地移転に伴いユニフォーム変更。
1999年《ホーム・ビジター共通》球団名を「大阪近鉄バファローズ」に改称。それに伴い胸ロゴを「Osaka」に変更。この年のみ左袖に50周年記念エンブレムが着けられる。
2000年 ビジター用ユニフォームを濃紺に統一。
2002年《ホーム・ビジター共通》左袖下にスポンサーマークがつく。2004年まで。
ホーム用
世界的なファッションデザイナーのコシノヒロコ氏がデザインしたユニフォームです。コシノヒロコ氏は1990年にグラウンドコートをデザインしたほどの大の近鉄バファローズファンです。大阪ドームに移転するにあたり、ユニフォームのデザインをコシノヒロコ氏に依頼しました。そのデザインを一言で表すと、デザイナーさんの手掛けるユニフォームは頑張り過ぎて逆にダサくなってしまう、これに尽きます!
バファローズネイビーと呼ばれる濃紺をメインカラーに、帽子のマークに白の猛牛マーク(丸に赤が使われてました)、同じ大阪にあった南海ホークスを思い出す肩ラインを採用し、胸ロゴと背番号には濃紺の縁取りにバファローズオレンジと呼ばれるオレンジ、左袖のOSAKAロゴ、胸番号、背ネームには濃紺の縁取りにバファローズブルーと呼ばれるスカイブルーが使われていて、どこか軽っぽい感じが否めません。赤袖でお馴染みだった、前のユニフォームの印象が強過ぎて拒否反応が出る人もいたようです。しかし、面白かったのは2001年にリーグ優勝して以降は誰もダサいとは言わなくなったことです。まさに「強くなればユニフォームの悪口は聞かれなくなる」を体現したとも言えます。
この時期は大村直之選手、水口栄二選手、タフィ・ローズ選手、中村紀洋選手、礒部公一選手、吉岡雄二選手と続く「いてまえ打線」が印象に残ります。左、右、左、右、左、右…と偏りの無いバランスの取れたジグザグ打線でした。3番打者のタフィ・ローズ選手が打率.327、55本塁打、131打点で本塁打王とMVPを獲得、4番打者の中村紀洋選手は打率.320、46本塁打、132打点で打点王と最高出塁率を獲得、さらに5番打者の礒部公一選手が打率.320、17本塁打、95打点で勝負強さを発揮したものですから、いてまえ打線の強力ぶりはパ・リーグの他球団の投手陣を震え上がらせました。フィル・クラーク選手、ショーン・ギルバート選手などの優良外国人選手、山本和範選手、北川博敏選手、武藤孝司選手、阿部真宏選手などの玄人受けする選手も躍動してました。また、打撃陣にばかり目がいきがちですが、投手陣も岩隈久志選手、ジェレミー・パウエル選手、ショーン・バーグマン選手、岡本晃選手、盛田幸妃選手、大塚晶文選手が躍動してました。佐野重樹選手、小池秀郎選手も外せません。ある意味忘れられない選手だと「11月31日の男」前川克彦選手、「炎上系クローザー」ヘクター・カラスコ選手がいましたね(笑)。
このユニフォームで印象に残っているのは、2001年のリーグ優勝決定試合になるでしょう。北川博敏選手の代打満塁サヨナラホームランでリーグ優勝決定した試合です。あまりにも劇的な展開に、優勝するときには必ずドラマチックな展開になることを証明してくれました。
大阪ドームが開場したことが皮肉にもチーム消滅を招いたことになりました。思えば日本生命野球場はナイター設備はあっても観客動員のキャパシティが少なくオールスターゲームと日本シリーズが開催出来ず、1983年までの藤井寺球場はナイター設備が無くオールスターゲームと日本シリーズ開催が出来ずに(1975年にプレーオフで阪急ブレーブスに勝っていたら藤井寺球場で開催していたそうです)、使用球場に苦しんでいた過去がありました。藤井寺球場にナイター設備が出来て、オールスターゲームと日本シリーズを自前の球場で開催出来るようになりました。なぜ藤井寺球場から大阪ドームに本拠地球場を変えたのか。より多くの観客動員数を期待していたからかもしれませんが、大阪ドームの使用料が高かったことが球団経営を悪化させ、チーム存続に首を絞める結果になり本当に残念に思います。オリックス球団と合併したことで「バファローズ」の名は残りましたが、近鉄球団は55年の歴史に幕を閉じました。
ビジター用
ビジター用ユニフォームは1999年までは2種類存在しました。その経緯をこちらで話します。大阪ドーム開場記念に新ユニフォームのデザインにコシノヒロコ氏が担当することになりました。コシノ氏は1990年にスタジアムジャンパーのデザインを担当していたことがあり、新ユニフォームのデザインもお願いすることになりました。話を受けたコシノ氏は自ら多くのファンに近鉄バファローズのイメージカラーを聞いたそうです。結果は十人が十人、赤と答えたとのことです。そこで赤を使ったユニフォームのデザインを作って完成させてみたところ、当時の佐々木恭介監督からは「社会人野球の東芝みたいで嫌だ」 との回答でした。選手もユニフォーム変更に拒絶反応を示したことから急遽紺を使ったユニフォームも作成しました。結果、赤もそれほど浮いた感じではなく、赤と紺の両方を採用することになりました。ファンからは「台湾のプロ野球チームみたいだ」と酷評されるなど、リーグ優勝するまでは評判が悪かったです。
赤のユニフォームはバファローズレッドと呼ばれる赤の上着で、胸ロゴと背ネームが白に濃紺の縁取りで、番号書体がスカイブルーに白の縁取りでした。また、紺のユニフォームはともに白の縁取りで胸ロゴと背番号書体がオレンジ、胸番号と背ネームがスカイブルーでした。
赤と紺の使い分けは当初はナイター用が赤で、デーゲーム用が紺を予定してましたが、偏りを避ける為に火曜日から木曜日までが赤、金曜日から月曜日までが紺でした。
個人的な感想を述べますと、確かにダサいと思いますが、球史に名を残すほどのワーストクラスのダサさは無いと思います。上下ツートーンカラーにするなら赤と紺を使うのは想定されたことであり、もう少しかっこいいデザインには出来た気がします。
赤と紺のユニフォームは生で見てます。東京ドームでの日本ハムファイターズ戦、神宮球場での1997年のオールスターゲームで赤のユニフォームを、千葉マリンスタジアムと東京ドームと2001年の日本シリーズ第4戦で紺のユニフォームを見ました。2000年6月25日に東京ドームでの日本ハムファイターズ戦では乱打線の末に近鉄バファローズが14-10で勝ちましたが、9回表の中村紀洋選手の特大ホームランと豪快なフォロースルーが今でも焼き付いてます。他には、赤のユニフォームでは1999年4月14日の西武ライオンズ戦での小池秀郎選手が松坂大輔選手との投げ合いを制した試合が印象に残ってます。紺のユニフォームでは近鉄バファローズ最後の試合だった2004年9月29日のオリックスブルーウェーブ戦が記憶に残ってます。
2000年に梨田昌孝監督になり、赤と紺の2種類のユニフォームを紺に統一することになりました。個人的には赤のユニフォームももう少し見てみたかった気もします。ダサいと酷評されながらも何故か不思議と憎めなかった大阪近鉄バファローズのユニフォーム。赤袖のユニフォームとは違いを楽しませてくれたことに改めて感謝したいです。
私自身、近鉄バファローズがもう戻ることはないとわかっていても、近鉄バファローズはまだ生きていると言い聞かせながら、近鉄バファローズが消滅してから20年経った今でもプロ野球を見続けています。やはり近鉄バファローズ消滅したことに対して受けたショックは消えることは無いんだと思います。