携挙のまとめ記事↓が文字オーバーなため一部をこちらに記載する。
異端の教え
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 コリント人への第一の手紙 15:51 口語訳 https://my.bible.com/ja/bible/1820/1CO.15.51.口語訳
ここの箇所の終わりのラッパを、黙示録の天使のラッパと解釈する人がいるが、
携挙のラッパは「神のラッパ」であり、「御使のラッパ」ではない。
➡︎このサイトは キリスト者ではなくただの学者が書いたものと判断した。
知識があるのと信仰があるのは別物である。
神の霊がない人に真実は知り得ない。
JAPAN SOSTVでは「患難後携挙説」を語っている。
➡︎このチャンネルは異端であった!参考記事「異端と自称クリスチャンの扱い方」
➡︎神の霊に導かれていなければ、真実は見えない。
そして人間の努力で神を知ろうとすると律法的・的外れになる。
日々、神様と共に歩むことでしか神様の思いを知ることはできない。
いくら聖書に詳しくても、神様から遠いということはありえるからだ。
以前書いたように、悪魔でさえ今後の展開はもちろん
神の言葉を知っているからだ。(イエスは悪魔から聖書の言葉を使った誘惑を受けた)
悪魔でさえ、神を装い、光の御使いに偽装するのである。
神の言葉・聖書の言葉を使っているからといって、全て信用できるとは限らない。
どこから来たのかを見分ける必要がある。
私たちは聖書がどう言っているかを日々調べるべきである。
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。 使徒行伝 17:11 口語訳 https://my.bible.com/ja/bible/1820/ACT.17.11.口語訳
そして個人的に感じるのは、
患難前携挙説を語っている人たちの方からは神の愛を感じ、
患難後携挙説を語っている人たちからは律法主義的な
自分の努力や聖書の知識を重んじているような怖い感じを受ける。
人間の努力で神を知ろうとすると律法的・的外れになる。
神は愛であるから、神の怒りの患難時代から救い出してくださるのである。
偽りの教え・欺きの時代
この記事が支配者層の計画の上に進められたものなのか
偽り
聖書予言「キリスト再臨」は“エイリアン地球侵略”の意味だった! 2021年から携挙(連れ去り)多発で人類滅亡、有名牧師が断言!
'彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。 ' テサロニケ人への第二の手紙 2:4 https://my.bible.com/bible/1820/2TH.2.4
参照:「その日、その時は、だれも知らない。」は「携挙」ではなく、アルマゲドン・地上再臨・天地消失の日
だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。ヨハネの黙示録 3:3 (口語訳)
誰に向かって語られているかも注意しなくてはいけない。
教会に警告されていることは、キリスト者に警告されていることであり、
地上再臨時のユダヤ人への警告ではない。
目を覚ましていないなら、盗人のように来るということは、
もし眠っているなら、キリスト者であっても携挙がいつなのか決してわからない
ということなのだろうと思う。
彼らには滅びが突然襲うが、携挙される者達には盗人のように襲うことはない
と言われている。これは預言者エリヤが携挙された日に、
エリヤ自身も他の者もエリヤが携挙されることを知っていた。
'あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが
臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。
そして、それからのがれることは
決してできない。 しかし兄弟たちよ。
あなたがたは暗やみの中にいないのだから、
その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 だから、ほかの人々のように
眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 '
テサロニケ人への第一の手紙 5:2-6
患難中携挙説
比較考察するまでもなかった
患難後携挙説
患難後携挙説を主張する人はこう言う。
生きてる間は守られることも約束されていると。
➡︎守られるのは「大患難時代の前に救われる人たちのこと」である。
先程の引用でもあったが、
守りは大患難時代に入ってからのキリスト者には適用されない。
大患難時代のキリスト者は命と引き換えに救いを得ることになる。
(黙示録3章に約束されている守りの約束は「教会時代の聖徒」に与えられているもので、)
また、大患難時代に入る前に14万4千人に神の印が押され、
守られると約束されているが、イスラエル人のことであって異邦人ではない。
参照:144,000人の正体
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 コリント人への第一の手紙 15:51 口語訳 https://my.bible.com/ja/bible/1820/1CO.15.51.口語訳
ここの箇所の終わりのラッパを、黙示録の天使のラッパと解釈する人がいるが、
携挙のラッパは「神のラッパ」であり、「御使のラッパ」ではない。
日々、神様と共に歩むことでしか神様の思いを知ることはできない。
いくら聖書に詳しくても、神様から遠いということはありえるからだ。
以前書いたように、悪魔でさえ今後の展開はもちろん
神の言葉を知っているからだ。(イエスは悪魔から聖書の言葉を使った誘惑を受けた)
悪魔でさえ、神を装い、光の御使いに偽装するのである。
神の言葉・聖書の言葉を使っているからといって、全て信用できるとは限らない。
どこから来たのかを見分ける必要がある。
私たちは聖書がどう言っているかを日々調べるべきである。
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。 使徒行伝 17:11 口語訳
そして個人的に感じるのは、
患難前携挙説を語っている人たちの方からは神の愛を感じ、
患難後携挙説を語っている人たちからは律法主義的な
自分の努力や聖書の知識を重んじているような怖い感じを受ける。
人間の努力で神を知ろうとすると律法的・的外れになる。
神は愛であるから、神の怒りの患難時代から救い出してくださるのである。