生きてる理由
友達のお母さんが亡くなった。子どもたちは遠くで生活の場をもち、お母さんは最後まで誰を頼ることもなく一人で生活されたのだそうだ。夏の炎天下でも草取りを欠かさず、80歳を超えても買い物は自転車で行き、子どもの呼びかけにも応じず、癌で入院するときも車の免許の更新を心配して、最後まで入院を拒否し、自分が再び帰ってこれなくなるなど夢にも思っておられなかった末の死だったそうだ。しかし頑固で明るいお母さんもやはり寂しかったことが遺品を整理していると分かったと友達がいった。
老いることに答えが無いまま、死にのみこまれてしまう。
私の父は9時ごろ仕事に行って20時・・遅ければ午前様での帰宅だ。母はその間、週に3日のデーサービス、3日は2時間ヘルパーさんが来てくれ、私が週に1度通う。でも、一人で過ごす時間も多く、ボヤも出したし、異食もあるし、徘徊もあれば、排泄も失敗が多くなってきた。お医者さんやケアマネージャーさんは家で介護するのはもう無理なのではないかとおっしゃる。
「わしの顔が分かるうちは、そんなんまだまだや」いい悪いは別として、そういってくれる夫があることは1つ母の幸せだろう。
それにしても子どもが3人もいるのに、誰も頼りにならない。子どもより、介護保険と母がためてきたお金と年金のほうが、随分と母の人生の役に立っている。なんと寂しいことだろうと思う。みんな、老いていってしまう。老いて患えば、誰かを頼りにしなければ生きていくことができなくなってしまう。赤ちゃんと違って、悲しみが深いのは、いろんな事ができなくなる中で、心と意識は大人のまんまということ。自分のことの決定権が自分にないことが理解できてしまう。
母を風呂場につれていき、とりあえず下着をとって洗う。排水溝に流れていく便、お湯で曇る私のめがね。不安そうな母。私は母のここから生まれてきたんやな・・と思う。
赤ちゃんの私は、便を取ってもらい食べるものを与えてもらい、世話をしてもらって、だんだんと言葉を話したり、歩いて、学校へ行かせてもらい、考えたり悩んだり喜んだりしてして大人になった。もう、一人で何でもできるつもりでいて、自分の周りには世話のかかるものばっかりがいて、忙しい忙しいと暮らしている。
母が生まれて、子どもが生まれた。母が死ねば、次は子どもが死ぬ。
きっと、時間は母も私もたいした時間差なく無へと飲み込んでいってしまう。いろんな事ができる前へと戻っていって、やがて緩やかに、または急に、生まれる前に帰っていく。
じゃあ、今、何をすればいいんだろう。
死ぬことは怖いか、老いることは惨めか。ビルの屋上に上れば足がすくむのだから死は怖いのだろう。でも、生まれてくる前が怖かったかといえばそんなことはない。記憶がなければ何も怖くない。
綺麗になった母に「おかあちゃん、いい匂いがするわ」というとうれしそうに母が笑った。「カフェオーレつくろうか・・」というと、「うん」といって、私の子どもみたいに母がついてきた。
ユキエ
「ユキエは戦争花嫁として、人種差別の根強く残る米国南部のバトンリュージュで40余年を生きた。 二人の息子が親元を離れた直後、夫が友人の裏切りに合い財産も名誉も奪われてしまう。失意の彼にとって唯一の理解者は妻のユキエだったが、ある日突然彼女はアルツハイマー病におそわれる。 深い寂寥感の中で夫は、自分の名誉が回復したならば、あるいは、結婚以来帰っていない日本に行けば、ユキエの病が治るのではないかと心を迷わせるのだが…。」
アルツハイマーを扱った作品をこのごろテレビでも映画でも本でもよくみかけるのですが、私の見たなかで一番良かったです。何より、視点がユキエを一人の人間として同じ目線でちゃんと作品ができあがっていることがすばらしい。病気のことをよく理解していないとこんな風な作品にはならなかったとおもいました。
何も知らないと、病気や障害があるとその人のことを宇宙人のように思いがちです。でも、小鳥とか猫とか風とか花とかと話ができる人間なのに、どうして同じ人間同士で会話がなりたたなくなってしまうのだろう・・と私は何度も思ってきました。主人公リチャードの苦しみと愛情は、私にいろんなヒントをくれたと思います。
ピック病
昨日、ピック病のテレビをみた。奇声を発し徘徊、情緒が不安定になり急に怒り出したり、一方的にぺらぺらしゃべったりする。アルツハイマーとはまた違うらしいが、同じ認知症。うろうろ動き回ったりことや急に怒こり、ギャー! 何しとるんじゃ、バカバカ! ピンポンピンポンピー!今のところ抗精神薬で症状を抑えるしか方法はないとされているらしい。
そのピック病の女性がラーゴムというグループホームに入所してから、あまりうろうろしなくなり、食事も座ってとるようになり、得意だった針仕事をしてみたり、町の美容室でパーマをあてて楽しんだりできるようになる。。患者は行動を抑えようとすると、かえって激しく抵抗するため、「ラーゴム」では患者を規制したり、指示したりすることは一切しない。患者の後を職員が24時間付き添い、必要に応じサポートする方法をとっている。
『外に出たいのなら、納得するまでつきあってみよう。職員たちはそう覚悟しました。気が済んだかと思っても、「ラーゴム」に帰ったとたん、再び飛び出してしまうこともしばしばでした。職員はそのたびにいっしょに歩き続けました』
『医者として反省するんです。前頭葉がやられると、その人がその人でなくなる――医学的にはそう説明されています。だけど、この方の今のお顔や、人生歴、どういう人であったのかを見ると、「脳が障害されていても、この方はこの方を保っているのではないか」と最近は感じられるんです。病気に向かう方法として、こういう方法もあるのではないかと思うのですけれども。』(ラーゴム 精神科医 佐々木健さん)
母は突然怒り出す。大きな声を出し物を投げる。昨年は大きな液晶テレビを割った。ヘアトリートメントやタバコをたべたり、排便排尿もうまくいかなくなりつつある。
母はどう母を保っているのか。目に見える行動に惑わされずに、私がどうそれを感じ取ることができるのか。
言葉をもたない鳥や猫や動物たちと意思疎通できたり、その存在を感じあえたりできるのだから、できないはずはないとおもう。
母が今後、どのような選択をしていくのか考えるのは、私がそれができるようになってからだ。
誰が見る?
母が髪につかうトリートメントのチューブをくわえて、クリームを口の中にしぼりだし、食べてしまおうとした。
今、母は自宅で一人でいる時間がある。デーサービスにいっているときは、デーサービスからかえってくる16時から、父が戻る21時ぐらいまでの5時間。ヘルパーさんが来る日は、父が仕事に行ってヘルパーさんが車での6時間、ヘルパーさんがかえって父が帰るまでの3時間。
私は母を一人にしておくのは危ないし、さみしいだろうともおもう。子どもの私たちががひきとれないのならば、グループホームを考えているが、父は反対する。
そんなところへはいって一人前に扱おうとしない誰かの監視の下にはいるよりも、危険を排除して、家の中で勝手気ままにしているほうがずっと幸せだというのだ。
そんな、父の勝手な思い込みだとおもっていたが、実際、デーサービスに見学に行ってみると、母は確かに一人ぼっちで落ち着きが無かった。母は65で、70、80のおばあさんにまじっているのも、違和感があるうえ、おばあさんたちは、あの人は頭がおかしいよ・・と、自分たちとは違う人間扱いなのだ。
職員の人は、母一人につくわけにはいかず、結局、母は一人で、フロアーをぶつぶつ独り言を言いながら、うろうろしているのだ。
あれは、孤独だろう・・神経もつかれるだろう・・・そう思った。しかし、家で一人でいるのも危険で、孤独な感じがする。あれでは軟禁だとおもう。
親は死ぬまで子どもの責任でみとるべきなのか。同じように年を重ねた配偶者の責任なのか。それとも家に入ったお嫁さんの責任なのか。それとも社会に責任があるのか。そして、物を言わない母はどうしてほしいのか。
悲しいことに、私が一緒にいたいのだ・・というひとは、一人もいない。
便
年末で忙しく、実家の町へ用事で行ったものの今日は寄らずにかえりたかった。でも、一人で毎日の世話をしてくれている父のことを思うと、週に1度や2度の都合をつけられないなんて・・と、時間はゆっくりできないけど顔はみてかえろうと思い直して、車をはしらせた。サンドイッチと、紙パンツと、大根の煮付けと、お味噌汁の具になりそうなものを買って実家へ行く。
鍵をあけて、ウンコまみれの母がいて、驚いてしまった。
便をもらして気持ち悪いので、ズボンは脱いでしまっていた。ズボン下は、便の重みでさがっているものの上手く脱げないから、中途半端なところまで下げてある。そして、母はよちよちとあるいて玄関へでてきた。手には便。床には便を拭いたティッシュが散らばっていた。上半身はセーターと毛皮のベストとその上にパジャマとジャンバーを着て、雪だるまのようにまんまる。
おしり拭きをとろうとトイレをあけると便座も便器もウンコがいっぱいついていた。気持ち悪いから母はトイレへ入って座ったのだろう。
ほんまにえらいこっちゃやなぁ・・って思った。おしり拭きどころでは取れへんくらいウンコがこびりついている。
慌てたらあかん・・慌てたらあかん・・・どこから手をつけよう・・・私はそのままお風呂場へつれていき、シャワーをかけながら少しずつ便を落としていった。排水溝へ便がかたまりのまま流れてゆき、つまったりするだろうかと気になりながらも、そんなことをかまってる余裕はなかった。便とながれていくお湯に私のメガネが何度も落ちる。落ちては拾い、かけては落とす。
でも、少しずつ綺麗になってきた母の下半身にいい匂いのするシャボンをいっぱいあわ立てて、今度は赤ちゃんにするようにごしごし洗った。洗っている間もうろうろする母だったが、綺麗になってきたね、いい匂いがするねというと母はうれしそうにしていた。
不思議と汚いとか思ったりしなかった。そして、母は恥ずかしいとか惨めだとか思わないのが救いだった。これが、姑なら私は世話ばかりかけて!と、腹が立って仕方なかっただろうと思う。
私は子どもと同居は嫌だと考えている。そして、老後は子どもの世話にはなりたくないし、施設がダメなら道端でのたれ死んだ方がましだと思っている。でも・・・・病気には勝てまい。自分ひとりで自分のことができなくなるときがあるかもしれないのだ。そうしたら、そのとき、人はどうやって自分の生活の質を守って、生きつづけるのか。自分の尊厳なんて、大切にする余裕などあるのだろうか。母が便を失敗したのはまだ2回目だ。それを手に取ったり便器につけてしまったりしたのははじめてだ。
自宅でで暮らされへんようになったら一体どんな選択肢があるんやろう・・って帰る車の中でいろいろ考えた。
やっぱり施設や病院しか仕方がないんかな・・・。
ごめんな。おかあちゃん。
陰毛
母が排泄を失敗するようになって、紙パンツを使っている。父はそんなものを使って、パンツにするのが当たり前になったらあかん・・と反対したが、秋ぐちで寒くなり始めたせいか、自分でできていたのに一旦失敗しだすと、一日、何度も失敗しっぱいし、数日で紙パンツになってしまった。
赤ちゃんのオムツと一緒で、布ならそのたびにかえるが、紙なら4回ぐらいは大丈夫なので、母はいつもおしっこの匂いがするようになってしまった。車に母をのせてすごすと、2~3日はおしっこの匂いが車に染み付いてしまう。
当初、紙パンツを変えてもらいのに、ヘルパーさんや夫に換えてもらうのは平気なのに、私だと母は恥ずかしがった。
そして、私は思い出す。私は母に抱きしめてもらった記憶が無い娘だ。小さい頃は、抱いてもらったことが無いことはないはずなのだが、自分の中で、お母さんに抱きついたり、腕を組んだり、手をつないだりして歩いたことが無い。お風呂だって小学校以来、一緒にはいったことがない。
そういえば、私たちは本の少し遠慮のある親子だ・・・。
子どもにかえった母をみて私は記憶を呼び戻す。父とケンカして、毎晩、母は泣いていてた。小学生の私は”おかあちゃん、離婚してもいいから”といったのを覚えている。
出かける前に、着ているものを換えないと匂いがするので、今日は無理やり換えてしまおう・・と、母に「出かける前に、いい洋服に着替えよう」と、ズボンのチャックに手をかけた。すると、「うん、そうやな」と、今日はすんなり私に換えさせた。それはそれで、 また、ショックだった。私が娘かヘルパーさんか、今日はよくわからないようなのだ。
母はまた少し悪くなったのか・・・。そして、私は母の陰毛を生まれて初めて見た。そして、私は母に産んでもらって今ここに生きてるのだと思った。
今日は髪のトリートメントチューブをくわえて口に搾り出し食べようとした。タバコの灰をおかずの上にかけて食べようとした。それに私が驚いてしまうと、母が動揺してしまう。 普通に、これはおいしくないから、こっちを食べよう。といって、さりげなく下げる。「さあ、おかあちゃん、買い物に行こうか?」母はうれしそうにうなずく。
1リットルの涙
「行きたいところ。
図書館、映画館、喫茶店(隅のボックス席に座って、レモンスカッシュが飲みたい)だけど、一人では結局どこへも行かれやしない。悔しくてさ、情けなくてさ、どうしようもなくて、わたしは泣くのだよ。
弱虫だね。仕方ないさ。私と泣き虫は足かけ二年のつき合いだもの。ちっとやそっとじゃあ離れてくれないよ。
今じゃあ、声を立てずに泣くことができるようになったし、ちょびっと泣いたくらいでは鼻の頭が赤くなるだけですむようになったがね。泣くと疲れて、目は腫れるし鼻は詰まる。食欲はなくなるし、いいこと一つもありゃせん・・・。
このごろは、みんなにつっかかってる。人間関係って複雑なんだよなぁ。だれが悪いというのでもないのに、知らないうちに進行していく。
私の病気といっしょだね。グスッ。」 1リットルの涙 本文より
歩くことも、排泄をすることも、音楽をきくことも、おいしいものを食べることも、しゃべることも、みんな、地球に空気があるのと同じくらい当たり前のことなのだ。
ところが、あたりまえと思っていることができなくなる。歩くのに右、右の次は左、左の次は右・・と考えないと歩けない。かかとの次にどこへ体重を移して、どの指から力を抜くかなど、意識しないと転んでしまう。
ものを食べるのに、まずは舌の上において、それから舌で右へやり、上の歯と下の歯ですりあわせる、つぶす。次は左、舌の上で味をかんじてから、どうやって喉の奥へすべらせる。そして、ふと・・いったい、私はどうやって食べ物を口の中からのどの奥へと押しやっていたのか・・・と考え込む。
考えないでやっていることを、考えないとできなくなると、どんなに考えてもできなくなる。
母は、わからない・・・わからない・・・言ってることがわからない・・・と 何度も言う。赤ちゃんに説明するみたいにやさしく細やかに説明するのに、母の目は宙を見る。そして、私は腹を立てる。母は私が怒ってることだけ・・・わかるのだ。
病気や事故、いろんな事情で当たり前のことが当たり前ではなくなる。特定の誰かがそうなるのではなくて、確実にみんな、老いとともに、だんだん排泄もおぼつかなくなったり、歩くことがスムーズでなくなったり、指が自由で動かなくなったりするのだ。
亜也さんは、15歳から体の機能が奪われえ行く病気におそわれる。それでも、明るく希望をもって、一生懸命生きようとする。
生きたい、生きたい、生きるってすばらしい・・そう願いながら、亡くなった。赤ちゃんに生まれる前と、死んで燃やされた後と、どちらのほうが恐ろしいか・・・。亜矢さんのことをおもえば、死が恐ろしいものではないということを祈る。
生きている自分の当たり前の日常が、いかに奇跡に近く、すばらしい能力を与えられて生かされているのか、思い知る1冊でした。
物語は誰か知らない他人の物語ではない。生きていることが当たり前ではない。そして、知っていたはずだけど、父も母も兄弟も友達も、そして、私も必ず死ぬ。死ぬまでにあたえられたそれぞれの自分の時間を、感じることができました。
お役所
国民健康保険証が送られてきたが、不在で届けられないので役所へ受け取りに来るようにとかかれた手紙を実家で見つけた。電話をすると古い保険証と交換になるので、古い保険証と印鑑をもってきてくれという。役所は17時まで。また仕事を休まなければならない。
前日に道がわかりにくいので電話する。 そうすると今度は本人でなければ渡せないと電話に出た担当者が言う。「私は成年後見人になっていて、裁判所から銀行まで手続きは私がしてるんですが・・」というと、成年後見人である証明書、または、私と母が親子であることを証明できる書類、戸籍謄本など、持ってきてくれといわれた。「前日に急に言われても用意できないし、仕事も再々やすめない」というと、加入証明書を発行するのでしばらくそれで病院など対応しおき、後日、再送の手続きをとるか、もしくは私のところへ転送の手続きをとってくださいという。転送の手続きのためには、また戸籍謄本や成年後見人であることの証明書が必要だといわれる。
本来の、本質的な、母のための仕事ではなくて、このようなわけのわからないことで、体力もお金も時間も精神も消耗されてしまう。
とにかく、病院にかかっているので、証明書でももらってこなくてはと役所へ向かうと、自分の道路とは反対側に建物があるものの、中央分離帯があって反対側へはいけない。進めども進めども、Uターン禁止で、しかたなく右折すると、また、その中は一方通行の連続。
なんとも、 自分がどこをどちらへむかってはしっているのかまったくわからなくなってくる。道も、介護も、私も母も。
やっとこ役所へつけば、10人の順番待ち。あせっても仕方が無いので、のんびり本を読んでいると、呼んでもらえた。 その担当者にも同じことを説明する。そうするとその担当者は、本当はダメなんですけど・・といって、健康保険証をくれた。そして、今は個人情報の管理が厳しくて、口頭だけでは、はいそうですかと言えないので、成年後見人であるという書類、戸籍謄本、母の住民票など、身分証明書だと思って持ち歩くほうがいいといわれた。
なんと煩雑なのだろう・・とおもったが、とりあえず、健康保険証をもらえたので安心して帰った。 非常に疲れた。
加齢と病気と
アルツハイマーと診断されて3年。母は最近、排泄がコントロールできないようだ。
排泄はトイレでするものだということもわかる。尿意や便意も感じる。もらせば恥ずかしいということもわかる。だけど、尿意を感じたらトイレへいって下着を下ろして、排泄をするということが、できない。
この服の模様がとても好きだということもわかる。この色が美しいということもわかる。この服がほしいということもわかる。物はお金を払って買うのだということもわかる。だけど、この服が美しくて好きなので、自分のものにするためにレジへいってお金を払って、初めて持って帰って、自分のものになるのだ という全部の過程をこなすことはできない。
盗るつもりなどなくて、ただ好きな色だから持っていたいのに、「ほしいならお金を払おう」と私が言うのが、母には不思議。そして、買ったしりから買ったことは忘れて「あら、これ、いい洋服やねぇ」
1つ1つ知識はちゃんとわかるのだが、その1つ1つがつながらないのだ。つながって、1つか2つ。
人が笑っていてもどうして笑ったかということがわからないから不機嫌になる。なぜか尿意を感じてきたが、次どうするのがいいのかわからない。、もらしてしまって、どうしてこうなったのかのかわからない。ただ、もらして恥ずかしいということはわかる。隠そうとする。
知恵や知識や記憶が、あっちとこっちでバラバラになって存在していている。
外から見る人はアルツハイマーの人間は何もわからなくなったと思う。痴呆とよばれるのだ。バカだ阿呆だといわれているわけだ。だけど、本人は、知識が連携しないだけで1つ1つのことはちゃんとはっきりわかる。バカでも阿呆でもない。
赤ちゃんが、やがて尿意を人に伝えることができるようになって、そしてトイレというものの使い方を覚え、尿意を感じれば、ちゃんと下着を下ろしてトイレで排泄を一人でできるようになる。ところが、年を重ねてアルツハイマーで脳に障害が起きたせいで、1つずつ順番に今度はできていたことができないようになる。
あたりまえにできることが、別段、深く考えずにできることが、できなくなる。あたりまえにできていたから、深く考えてやっていたわけではないから、いざ、どうやってやっていたかと考えてみると、どうやってやっていたのかわからない。
右足の次に左足を出すといちいち考えながら歩かない。かかとをついたら、次はどこへ力を移すかと考えたりしない。ものを飲み込むのに、どこらへんで力をいれてのどの奥へおしやるかなど、説明できない。
母はニコニコわらいながら、いろんな気持ちが通じないので、悲しかったりもどかしかったり恥ずかしかったり怒ったりしているようだ。だけど、自分の感情が正しいのかどうかわからなくて、突然怒ってみたり、ただニコニコわらってみたりしているようだ。
そして、私も母が何をいいたいのかわからないことが多い。
そして、別にアルツハイマーにならなくても、人は年を重ねて老年に入ってくれば、1つ1つとものや機能やあたりまえを失っていくのだ。特に病気になった人だけがかかえた特別な問題というわけではないのだと、母を見ていて思う。
歯の治療
朝の忙しい時間に父から深刻そうな電話がかかってきた。銀歯が抜けたらしく母が手の中でころころころがして遊んでいたのだそうだ。「虫歯になったら大変や・・。早う治療してもらわなあかん。医者をさがしてくれ」
なんや・・・そんなことか、電話をとったまま一言も発さないで、考えるので命にかかわることが起きたのかと出勤前の私はびっくりした。
だけど、歯医者・・命にかかわらないかもしれないが、それは、非常に困難な仕事だ。
だいたい、母は診察台でじっとしていることができない。小さい子どものように白衣を着た人が怖い。CTのときもそうだったが、音が怖い。ましては、口を開け続けるということができない。だいたい、歯磨きができなくなってかれこれ1年以上になる。デーサービスで口腔ケアをしてもらっているが、すぐに嫌がって逃げてしまって、それだってたいしたケアはしてもらっていない。
歯の治療たって、どうしたものか。
歯磨きができなくなったとき、ケアマネージャーさんが、歯医者さんに連れて行くようにと何度も電話を私にかけてきたが、できるわけないと私は母を歯医者さんへつれていかなかったのだ。いつも通っている病院や整体などの送り迎えで精一杯だし、仕事を休むのにも限界がある。
治療なら全身麻酔してもらうしかないではないか・・しかし、型を取ったりはめたり削ったり、そうそう何度も全身麻酔などできるはずもない。
市の歯科医師会へ連絡を取り、往診してくださる歯医者さんをさがすことになった。そして、電話をくれたのが若いかわいらしい女性の歯医者さんだ。そんな駆け出しの歯医者さんにできるのだろうか・・。それとも、あまり医者然とした人じゃないほうがいいのか。その歯医者さんのまだ頼りないかわいらしい話し方や声を聞いていて、思う。
以前、母の成年後見人に立つときもそうだった。弁護士さんは儲からない面倒な仕事に後見人に立つことにあからさまに難色をしめされた。そして、社会福祉協議会へ行ってみろという。社会福祉協議会では、一人暮らしで緊急性のある人ならまだしも、家族があるのなら家族でやってくださいという。歯医者さんにとっても、きっと、これは、儲からない面倒くさい話なのだ。やり手で忙しいベテランの歯医者はそんなことやってる暇はないのだ。
これからの世の中にとって大事なことなのに・・・・。
わかるかわからないか説得して、できるだけ母に同意を貰って、緊張をほぐし、口をひらけるために奥歯になにかかませてもらったりして、なんとか診察できないものか・・・と思っている。、










