「とはずがたり」 ~散歩ブログ~ -131ページ目

私のど真ん中

 年末と言えば忠臣蔵。「殿中でござる!」江戸城中の松の大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介を斬りつけました。その後、浅野は切腹処分とされ、吉良はおとがめなし。これを不服とした浅野の遺臣、大石内蔵助良雄以下、赤穂浪士47士が吉良邸に討ち入りしたのが旧暦の12月14日でした。
 「教育」の2文字からある意味開放された私は、企業の「成長」ということに軸足を移しました。学習塾のあとは教育にこだわりながらもしばられることなく、他業種へ踏み出します。ITバブル時期のネットインフラ企業、ジャパニメーションという言葉が出始めた頃のアニメコンテンツ関連企業、バイオベンチャー、ネット広告企業、FX企業などの上場準備や上場後のIRを通して、企業が成長する姿を見てきました。
 今ではこの道が正しかったと信じています。企業が少しずつ成長している姿を見ているのは、あの頃の自分のクラスの子供たちの姿を見ているようです。この思いが続く限り企業の成長支援が私のど真ん中です。
 江戸城を散策しながら、自分の原点を振り返った原点ブログも5回目の今日で終了します。次回からはまたいつもの散歩ブログに戻します。

ずっと教育にこだわり続けたかった

 江戸時代の同心が詰所として待機した「番所」がありました。更に先に進むと「百人番所」があります。100人の同心が交代で警護に当たっていました。このすぐ裏手は皇宮警察の本部となっており、その隣は柔剣道の道場「済寧館(さいねいかん)」で、警察官が鍛練する声が聞えます。
 学習塾では生徒に配布する教材が棚卸資産として管理されることを知りました。教材は倉庫だけではなく各教室で未使用のままストックされているものを含め、毎月在庫を確認して月末の棚卸高を算出し、経理部に報告しました。一方でそのような処理方法についてルール化し、その他会社内で行われる業務を次々に規程化していきました。
 のちに、これが株式上場のための準備だったことを知りました。これを機に企業経営に興味を持つようになりました。経営理念や教育理念を学び、それらが人事制度に影響されることを知り、更に組織が適正に機能するための職制や各部門の役割を学びました。
 企業にとって経営理念は「軸」。人に置き換えても同じことで「考え方」が軸。軸がぶれない企業や人の言葉には説得力があります。

 「教育」にこだわってきた私は一歩踏み出すことを考えました。企業がステージを上げていくことと子供が成長していくことが、私の中でオーバーラップしていきます。企業にとっての上場は子供の進学や入学と同じと捉え、この仕事なら教育にこだわり続けてもやっていけると考えたのです。

転機

♪♪ ひ・さ・しぃ・ぶぅ~りに  手をひ・い・い・てぇ~ ♪♪
♪♪ ここが ここがぁ 二重橋ぃ~  記念の 写真を とりましょぉぉねぇ~ ♪♪
「東京だよ おっ母さん」by島倉千代子

 皇居宮殿に向かう途中に二重橋があります。観光客の方々につられて私も一枚!
 あることをきっかに私は教師を辞める決意をします。ところが民間企業に入ったことのない私は、どんな会社に転職すれば良いのか迷いました。間接的でもいい、「教育」に関わっていたいという思いだけが残り、学習塾に行こうと考えました。ただ面接の時、私はこんなお願いをしました。
 「教室には行きたくない。生徒の前に立てばまた学校の先生に戻りたくなる。だから会社の仕事をさせてください。」
 すると、「それなら総務部が良い。他部署と関わることで会社全体の仕事が把握できる。」と人事部長は私の希望に応えてくれました。このことがIPOを知るきっかけとなり、その後の人生の転機へとつながってゆきます。

相手が理解できないのは、自分の伝え方がダメだから

 鎌倉幕府の政権末期に朝廷は南北に分裂し、南朝と北朝で交互に天皇を擁立する時代が続きました。1333年に鎌倉幕府が滅ぶと南朝の後醍醐天皇が親政を布き、南北統一を目指します。ところが政局は混迷し、足利尊氏が政権獲得に向け南朝に攻め入ります。このとき、天皇側について足利尊氏と戦ったのが楠木正成です。
 朝廷側の忠臣として、皇居外苑にその勇ましい姿を見せています。
 埼玉県のとある町で私は教師をしていました。給食を食べ終わると元気に飛び出す子供たちの後を追って校庭に出て行きました。手つなぎ鬼、リレー、相撲、ドロ警・・・。子供たちが求める遊びは何でもやりました。自分も楽しかったからです。。。。
 短い教師生活でしたが、多くのことを学びました。一生懸命に子供たちに向かいました。教師生活で学んだことの一つにこんなことがあります。

「理解できない子供がいたら、それは私の教え方、説明のしかたが悪いんだということ」

 自分の考えや教科書の中に書かれていることを、子供たちの小さな頭で理解できるように伝えなければいけない。その力が私には足りないんだということを学びました。このとき私は23歳。23歳の私が理解できる言葉は、必ずしも子供たちが理解できる言葉ではないことを知ったのです。

大きくなったら先生になりたかった

 皇居を中心として、多くはその周囲が私の活動範囲となっていますが、皇居には一度も入ったことがありませんでした。天気も良かったので皇居の中を散策しながら、原点に戻って私のこれまでをたどってみます。

 まずはお堀の白鳥です。ゆっくりゆっくりお堀の中を行ったり来たり。気持ち良さそうでした。
 母に聞くと予定日は元旦だったと言います。2日遅れて1967年1月、正月三が日の3日目に3人兄弟の二番目、長男として十条(埼京線)という町で生まれました。慌しくも愛でたい(めでたい)正月となりました。7月1日の富士山の山開きには毎年大きな縁日があります。通称「お富士さん」と言います。子供の頃の楽しみの一つでした。隣町の赤羽や王子も近く、中学生になると1ゲーム10円のインベーダーゲームを求めて行動範囲も広がっていきました。
 水谷豊の「熱中時代」や中村雅俊の「ゆうひが丘の総理大臣」で教師への思いが芽生え、武田鉄矢の「金八先生」で意志が固まりました。白鳥のように真っ白だった私の心のキャンバスに少しずつ色が染まってきます。中学3年生の時の担任の先生に初めて「先生になりたい」ことを告白しました。
 つづきはまた・・・。