あの空へ、いつかあなたと -9ページ目

あの空へ、いつかあなたと

主に百合小説を執筆していきます。
緩やかな時間の流れる、カフェのような雰囲気を目指します。

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「…………っ!!?」

驚き過ぎて言葉も出ない。
椅子から転げ落ちそうになるのを必死にこらえるのに精いっぱいだった。

錯覚か、あるいは幽霊かと思ってしまいそうになるくらい唐突に、リコは教室にいた。
おそらく私が頭を抱えていたその間に、教室に戻ってきていたのだろう。
それにしても目の前に現れるまで気づかないなんて、私はどれだけ考えに耽っていたのか……


だが原因はそれだけではないようだった。

リコの表情はどこか虚ろで、荷物を鞄にしまう動作の一つひとつに生気がない。
長い黒髪と外の薄暗い雰囲気もあって、本当に超自然現象的な何かを思い起こさせてしまいそうだった。
あの時私を見ていた瞳も、昏く淀んでいた。

でも声をかけることができない。
気まずいからだけじゃない。リコのこの状態が、保健室で何かあったからだと察したからだ。


リコとルイの間にあった何か。
それなら私からは、何も言えない。何も言うことができない。
私にはフラフラと教室を出ていく彼女を、ただ見届けることしか――――




「お願い…………気をつけて……帰って……どうか」
あまりにもか細くて、聞き逃しそうになる声。
でもそれは、紛れもなくリコが発した言葉だった。

教室と廊下を隔てる扉を通るか否かのところで、背を向けたまま話すリコ。
そしてそのまま、彼女は帰っていってしまった。


「…………え?」

突然すぎて私の内側で起こる感情の変化についていけない。
驚き、怒り、喜び、恐怖、不安、疑問……

一つ言えることは、もはやプリントの内容など、頭に入らないということだけだった。
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「じゃあ、今日も部長に……」
「うん……有希、ごめん」

私の方を気にしながら、有希と里穂は部活へと向かっていった。
二人を見送って、私はため息をついて机に並べられたプリントに目を落とした。
明らかに1、2時間で終わるとは思えない量。でもそれが自分のしたことの結果なのだから文句も言えない。


廊下で担任に見つかった私は、すぐさま教室へと連れ戻された。
そして授業を無断で休もうとした罰として、これだけの量の課題を今日中に提出するよう命じられたのだ。
教科書にかじりついて一問一問頭を抱えながら問題を解いていく。

その間ですらも、リコのことは私の心から離れなかった。
彼女の席の方に目をやる。
昨日の補習の時とは違って、そこには誰も座っていない。


リコは結局、あの後から教室には戻ってきていない。
北崎と一緒に出て行ってから、すでに数時間が経とうとしているのに。

担任は最初こそ彼女を気にかけていたが、事情を聞いてからは何事もなかったように授業を進めた。
授業が終わり、昼休みを挟み、帰りのホームルームになっても特に気にする様子もなかった。

北崎だけは担任が荷物を回収し、どうやらそのまま下校したようだった。
なのにリコの荷物は机に置きっぱなし。ということはまだこの学校のどこかにいるのだろう。


いや、いるとするならきっとあそこしかない。

保健室。
ルイと呼ばれる人物がいた保健室。


「…………」
鉛筆を握っていない左手で頭を抱える。
間違いなく、リコには保健室の前に私がいたと気付かれてしまった。

具合が悪くなって、なんて言い訳は通用しないだろう。
“私”が、“保健室の前に”いることが、もうそれだけで特別な意味を持ってしまうのだから。




――――私に関わらないで

再び、リコに言われた一言を思い出す。

私のしたことは、その言葉を無視した行為だ。
少なくとも彼女は、そう感じるだろう。


彼女からの、忠告にも似た言葉を反故にした私。
一体何がどうなるというのだろう……
途端に妙な不安に襲われ、不意に視線をプリントから辺りに移す。


そこには、ずっといなかったはずのリコがいた。
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保健室は私の教室とはさほど離れていないので、すぐにたどり着いた。

あの時以来、あまり近づきたくなかった保健室。
ある意味では私とリコが初めて出会ったともいえる場所。
そこに直接入らず、閉まっているドアに耳を当てることにした。

それは不自然な行動で不審以外の何物でもない。
でもそうしなければ、きっと私の知りたいことにはたどり着けない。
鼓動が早く脈打つのを感じながら、できるだけ音を立てないように中の物音に集中した。


『後は少し眠れば、北崎さんは大丈夫よ』
『そう……』
『ありがとう。あの子を連れてきてくれて』
『…………』

聞こえた声は二人。
一人はリコのものだろう。そしてもう一人は聞きなれない声だが、少し大人びた口調に感じる。

『ねえ、ルイ。貴女には……私だけだよね?』
『……もちろんよ』
『そう……だよね』

霧子の声がどこかしおらしい。
普段の、そして昨日の彼女とは違う、まるですがるような口調。

『ルイ、私……』
『そんな顔しないで、……こっちに来て、霧子』
『…………ずるいよ、ルイ』


「…………き、りこ」
霧子、と呼んだ。彼女がルイと呼ぶもう一人の誰かが。
なのにリコは呼び方を訂正しない。私たちにしたように。

昨日、私にしたように。

――リコって呼んで
――みんな……そう呼んでるから

すぐにピンと来た。
今リコと話している、ルイと呼ばれる人があの時彼女とキスをしていた人物だと。
本名で呼ばれたくなかったのは、きっと特別な人にしかそれを許したくないから。


保健室、大人びた声、ルイ。
リコが、愛する人物。ルイ。


扉の向こうから聞こえるリコの涙声。

なんて、…………
…………………

胸の奥で何かが叫んでいる。

ここにいてはいけない、心の敏感なところが露わになる。
戻らなくては……苦しくなる前に、痛くなる前に。


「早川!! なにやってんだこんなところで!」

運がよかったのは、明らかに奇行でしかない盗み聞きの場面を見られなかったこと。
そしてそれ以上に運が悪かったのは、担任にはっきりと大きな声で、私の苗字を呼ばれてしまったことだった。
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