(『新・人間革命』第7巻より編集)
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〈操舵〉 2
吹雪は、ますます激しくなっていた。
この豪雪は「三八豪雪」といわれ、北陸・信越地方に、記録的な被害をもたらし、新潟県下の被害も大きかった。
二十四日も暮れて、夜になると、車内のメンバーの不安は増していった。空腹にもさいなまれ始めた。
飲料水もなかった。喉の渇きを癒すために、外に出て雪を食べた。
列車には暖房が入っていたが、それでも寒さが染みるようになった。目を閉じてはいても、熟睡する人は誰もいなかった。
会社のことや、家に残してきた幼子や病身の家族のことなどを思うと、誰もが、いたたまれぬ気持になるのである。
だが、幹部の多くは、自分たちのことよりも、家族が未入会のなかで、登山会に参加した同志のことを心配していた。
このうえ、さらに何日も家に帰ることができないとなれば、家族はどう思うだろうかと考えると、胸が痛むのである。
静寂な車内に、時折、火のついたように泣く、赤ん坊の声が響いた。それが、一層、皆の切なさをつのらせた。
持参してきたオムツも既に使い果たし、子をあやす母親の声もくぐもっていた。
そのころ、長岡支部のメンバーは炊き出しに大わらわであった。
夕方、長岡支部長の竹川正志から、新潟支部と羽越支部の登山者九百人が乗った登山列車が、
宮内駅に立ち往生しているので、オニギリをつくってほしいとの連絡が流れるや、五十人ほどの人たちが、すぐに準備に取りかかった。
この時、長岡支部からも、五百数十人の支部員が登山会に参加していたが、長岡支部の登山日は、一日あとであったために、・・・。
つまり、長岡支部の中核となるメンバーの大半が、不在だったのである。
そのうえ、長岡に残った人たちは、自分の家の屋根の雪下ろしや雪かきをしなければならなかった。