つまり、インドの言葉と中国の言葉がともに具わっているのが南無妙法蓮華経なのです | くにまさのブログ

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    (『新・人間革命』第6巻より編集)

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          〈若鷲〉 23

 

 また、ここに、田原君という人間がいる。彼はこうして講義を聴いていることもあれば、電車に乗ったり、食事をしたり、眠ったりすることもある。

 

 あるいは、苦しみ、怒り、悲しみ、喜びもする。

 

 ところが、何をしていても、同じ田原君という人間である。そこには彼を彼ならしめている統合性、いわば法がある。

 

 これが不変真如の理です。

 

 そして、さまざまな生命活動は、隨縁真如の智になる。

 

 この不変真如の理と隨縁真如の智は、いっさいのものに、ともに具わっているというのが、生命の実相であり、それを『隨縁不変・一念寂照』と言われているのです。

 

 この妙法の原理に則り、英知を輝かせ、人類の幸福と平和を築くことが、私たちの使命です

 

 山本伸一は、時には、精神身体医学や細菌学を例にあげて色心不二(しきしんふに)を論じ、仏法の生命観を講義していった。

 

 また、カントの時間論や空間論と、仏法で説く一念という考え方とを対比させながら、日蓮仏法の生命哲理の深遠さを語った。

 

 さらに、「当体義抄(とうたいぎしょう)」「・・・ 」など、関連する御書も拝しながら、講義は進められた。

 

 まさに、彼の講義は自在であり、受講生の心をとらえて放さなかった。

 

 「また、いわく、南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり。梵漢共時に南無妙法蓮華経というなり・・・」の箇所で、伸一は言った。

 

 「南無妙法蓮華経の南無とは、古代インドの言葉である梵語を、そのまま意訳したものです。そして、妙法蓮華経は、既に意訳された漢語です。

 

 つまり、インドの言葉と中国の言葉がともに具わっているのが南無妙法蓮華経なのです。

 (つづく)