(『新・人間革命』第4巻より編集)
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〈立正安国〉 18
経蔵に籠(こも)ると、彼は、来る日も、来る日も、一心に経典に目を注いだ。
大集経(だいしゅうきょう)を手にした時、日蓮の目は、鋭く光った。そこには、仏法が隠没(おんもつ)した時に起こる天変地妖などの様相が克明に書かれてあった。
それは、ことごとく、正嘉の地震以来の世の中の姿に符合していた。
”この通りだ!”
「仏法の隠没」は、日蓮自身、最も痛感し、憂慮してきたことであった。
仏教各派の寺院は、鎌倉にあっても甍(いらか)を連ね、むしろ、ますます隆昌を誇っているかに見えた。
しかし、釈尊が説こうとした、真実の仏法も、その精神も、もはや、そこにはなかった。
経文には、何が釈尊の真実の法かは明瞭である。
たとえば、法華経の開教である無量義経(むりょうぎきょう)には、「四十余年未顕真実(みけんしんじつ)」((四十余年には未だ真実を顕わさず)とある。
釈尊の五十年の説法のうち、前の四十余年の説法は、爾前権経(にぜんごんきょう)の教えであり、真実を顕わしていないことが明言されているのだ。
なぜなら、法華経が生命の真実の姿、全体像を説いているのに対して
、法華経以前の教えは、譬えなどによって示した仮の教えであり、生命の部分観を説いたに過ぎないからである。
当時、仏教界には、天台、成実、律、華厳・・・があった。
このうち、天台宗のほかは、爾前権経の経典を拠り所としていた。
また、法華経を根本としていた天台宗さえも、伝教大師の亡きあと、真言密教や念仏に染まり、本来の釈尊の教えに背いて久しかったのである。