またしても更新が滞ってしまいました、すみません。もちろんこの間も活動は続いていて、だから、取り上げるべきことがなかったということではぜんぜんないのですが、同時進行のいろいろが重なっていて区切りがつきにくかったというのが、妥当な言い訳かと思います。―数年来メインテーマだった制服選択制の議論は大詰め、とっておきのイベント「成蹊プロトタイピング2050」の開催、長年求めてきた中学向け活動の本格化(展示「スクール・ダイバーシティってなんだ?」、映画上映会&トークイベント、昼の放送の計画)―というわけで、2021年最後は、これら文化祭以降の状況から、制服選択制についての学校側の当面の結論をピックアップしてそれについて考えを巡らせるということで締めたいと思います。
おそらく来年度からということになると思いますが、わたしたちの学校も、遅まきながら、「女子」が理由に関わらず「スラックス」を選択できることになりそうです。従来の「制服スカート」か、「女子制服スラックス」か、という選択です。寒いから、スカートはいろいろムリだから、パンツスタイルが好きだから―理由はさまざまでしょうが、それは問われません。これによってたくさんの女子生徒にとって選択肢が増えるわけで、それは、ナイスだと思います。ナイスだと思いますが、でも、これでOKだともぜんぜん思えないのです。例えばこんな「女子」の存在がスルーされています。―「女子として括られることが苦しくてたまらない女子」にとっては、せっかくスラックスが履けるようになって「女子制服スカート」から解放されると思ったらそのスラックスはなんと「女子制服スラックス」! 「本校生徒は誰でもスラックスを着用できます」ではなぜいけなかったのでしょうか? 明確な回答はまだないように思います。そして、「男子」には選択の余地がないというのも明らかにフェアネスに欠けています。この点についても昨年度末に開催された成蹊サミット(「校長・中高教頭×スクール・ダイバーシティ」の意見交換会)などで議論を重ねましたが、学校側がそれを選択肢に入れない理由はこんなふうにまとめることができるかと思います。
「男子のセーラー&スカートについては、そういう希望の生徒がいるかも知れないということは分かるけど、やはりまだ社会的には十分に受け入れられていないから、その生徒のいろいろな意味での安全という点からも、難しいのでは? 時期尚早なのでは?」
というわけですが、でも、「社会がそうだから、学校もそうする」っていうことじゃあ、いつまでたっても何も変わらないし、社会的に構成された「らしさ」に当てはまらない生徒たちの居場所はいったいどこに?―ということになってしまいます。それよりもむしろ、社会がそうだとして、そこに改善の余地があると気付いたなら、社会に先立って、まずは学校だけでもそんな生徒たちの居場所になれるように先回りしてみようという発想はどうでしょう? ありえないでしょうか? たしかに、教員の間でも、多様性やSDGsの話題が上がった時に「まあ、そういうご時世だよねえ(ニヤニヤ)」みたいな空気感はあって、簡単じゃないことはもちろんですが、でも、そこはこんなふうに問いかけたいと思います。
「社会がこうだから、成蹊もこうしておこう」―みたいな成蹊は誇らしいですか?
「ぐずぐずしてる社会を先回りして新しい価値観を提示する」―そんな成蹊は誇らしくないですか?
例えば、9月に開催された成蹊学園サスティナビリティ教育センター所長の池上敦子教授とスクール・ダイバーシティメンバーとの意見交換会ではこんな先回りのアイデアも出ました。武蔵野市と意見交換会的なイベントを共催して、「成蹊は制服をこんな感じの選択制にしました。パターンはこうです」というのを提示して共有してしまう、そして、それを地元に知ってもらうという、つまり、先回りして新しい価値観を体現する成蹊をむしろ前面に出してしまうというやり方です。公共トイレのことなんかも「心配」ネタとしてよく出されますが、武蔵野、吉祥寺で成蹊の制服を着ていれば「安心、安全」(苦笑)になるというイメージ。「あ、成蹊は男の子にもセーラー認めてるんだった」「女の子もスラックスありだった」「成蹊の制服はジェンダーレス選択制だって言ってたっけ」ってなればと。
さらに言うと、こんなイメージもありうるのでは。学校で「そうしたい自分のままでくつろげる」という経験をした生徒たちが、次々と社会に出ていくというイメージもすごくポジティブだと思うのです。そんな彼らが、あっちでもこっちでも「自分のたちが学校で経験したあたりまえ」を示してくれるとしたら、それはときに、萎縮して過ごしてきた他の誰かたちをエンパワーすることになるのではないでしょうか? ちょっと夢見がちにすぎるでしょうか? でも、実はこんなふうにエンパワーされる経験は、池上さんとの意見交換会の最中にもあったのです。
参加メンバーのある生徒は区立の中学校出身ですが、そこには「セーラー服の男子」が在学してそうです。学校側とその生徒は話し合いを重ねたんだと思いますが、着替えの場所やトイレなんかが工夫されていて、そして、登下校の際は「男子の制服」だったとのことです。ポイントは2つ。
ひとつ目。「困ってる1人」について学校がちゃんと対応しているということ。これを「特別扱い」と見るのは、けちくさいということで一蹴したいと思います。ここではこの対応を、「困っていてSOSを伝えれば、誰のためにだって学校は対応するよ」というメッセージとして理解すべきなのだと思うのです。そのように理解すれば、それは誰にとってもポジティブになりうるからです。
もうひとつ。その生徒は男子の制服で登校すると、職員用の更衣室でスカートに着替えてその日の学校生活をスタートさせるわけですが、つまり、現状、社会はセーラー&スカートを着用している男の子を受け入れていないという現実はやはり否定のしようもありません。街中では奇異のまなざしや何らかの危険にさらされるかもしれません。だけど、この生徒とこの学校は、そこであきらめるのではなく、せめて学校の中だけでも「そうしたい自分」でいられるような空間にしてみては? と考えたわけです。もちろんこれだって簡単ではないでしょう。学校も社会の一部であって、だから、そこにも当然奇異のまなざしや危険はあるでしょう。でも、同時に学校は閉じられた社会でもあって、そこでの「あたりまえ」を作り替えることが可能な社会でもあるのでは? ということで、彼らはチャレンジを始めたわけですが、この段階で重要なのは、実はシンプルだったようです。「慣れる」こと、「見慣れる」こと。それは、「こういう人がここにいる」「学校はそれをきっちり認めている」という事実が日常の一部になっていくということでしょう。こんな経験をできるとしたら、それは本人だけでなく、誰にとってもポジティブなのでは? そして、これは中学校の話です。中学生に出来て成蹊高校生にできないとは思えないんですけど、どうでしょう? で、こういった取り組みを地元行政、地域にも少しずつ知ってもらってっていう感じになれば、それは本当にナイスだと思います。新しい価値観を先回りして学校の日常にしてしまう、そして、地元行政、地域、やがて広く社会に―というくイメージです。
社会に出れば理不尽なこともたくさんある、そんな理不尽に備えて免疫をつけるのも学校の役割? いやいや、そうではないでしょ、ということでもあります。学校こそが、理不尽にピンと来て、それを問題化して、そして、フェアネスに落とし込んでいくというトレーニングの場だと考えたいと思います。だって、社会が理不尽で、学校が理不尽に慣れるための場だったら、この世界のデフォルトは理不尽ということになるけど、それでいいんですか? ということです。
わたしたちがイメージしてきた「制服選択制」をあらためて。
時間をかけて中高生徒指導部とも共有したこの「制服選択制」は、性別にかかわらず―というか、わたしたちの学校の生徒であれば、それがどんな誰であるかに関わらず「制服を選択することができる」という意味での選択制です。ここに描かれたパターンの中から、理由を問わず誰でも好きなパターンを選ぶことができる、ということです。そして、長い間愛されてきたセーラー、詰襟、濃紺といった伝統はそのまま継承したいとも思っています。
学校側も「女子制服スラックス」がゴールであるとは考えていないということです。なので、来年度以降も、より多様でフェアな「制服選択制」を目指して、活動を重ねていきたいと思います。
もちろん活動は、制服関連だけではありません。この間、「次何やる」的なミーティングも重ねていて、ちょっとおもしろいアイデアも出ているので、そちらもがんばりたいと思っていますし、そのあたりは年明けの更新でとも思っています。いずれにしても、フェアでくつろげる空間としての学校、気前のいい社会としての学校、そんなイメージが大切なのかなと考えているところです。
コロナ、またぶり返してくるみたいです、くれぐれもご自愛を。
それでは、みなさん、よいお年を。
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