スクール・ダイバーシティ

スクール・ダイバーシティ

成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

 ひさしぶりすぎて、どんなスタイルで書いてたか、ちょっと忘れちゃってるくらいなんですけど、やめるつもりとかではなくて、たんに怠けていただけです。この間もスクール・ダイバーシティは活動し続けていて、いろいろ新たな展開もしていました。この「新たな展開」について言うと、それは以前にもまして「アジール」感を大切にするという方向性のことで、そのうち具体的に紹介できればと思います。

 ということで、なんの前触れもなく再開した今回は、夏休み前に行われた高校1年生学年朝礼でのトークを紹介したいと思います。「差別をしない」ことと「差別を許さない」こととは、同じではありえないよね?—というテーマです。こんな感じです。

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 おはようございます、今日はスクール・ダイバーシティの担当者として話します。どんな話かというと、「差別を許さない」という話です。まあ、あたりまえですよね、「差別は悪いこと」—って誰だって知ってる。でも一方で、差別やヘイトが目の前にあるということも事実です。

 わたしはサッカーが大好きなので、W杯期間中はもう最高で、だからネットのいろいろな書込みも見て回って、楽しいんですけど、でも同時に、うわあってなることもあって、なんというか、世界中で差別主義者みたいな人間たちがはしゃぎ回ってるんですよ、ほんとに。

 主催者(FIFA)側も、放置するつもりはなくて、問題のある投稿を調査していて、そうすると、その数は前回大会の13倍を超える勢いなんだそうです。うち60%はプレーや采配に対する誹謗中傷系。で、残りの約40%が、差別的投稿、ヘイトな投稿で、ほとんどは人種差別、性差別とのことです(7/16現在)。
 例えば、選手の肌の色や出身が揶揄されたりするのはもちろん、LGBTQ+、女性、移民などの権利のために発信してる選手なんかが攻撃のターゲットにされがちです。—いずれにしても差別やヘイトは日常…。

 ただそれでも、例えば、この学校について言えば、「差別をしない人」がほとんどだと思います。そして、この学校に限らず、圧倒的に多くの人が「差別なんかしない人たち」だと思うんですけど、でも、じゃあ、なんで差別はぜんぜんなくならないのか?

 ここでうっかりしがちなのは、「ある誰かが差別をしない」ことと、「ある誰かが差別を許さない」こととは、ぜんぜん違うっていうことで、これが今日のポイントです。

  「自分は、差別はよくないと思ってるし、差別なんかしない」―これ自体は、もちろんいいことです、悪くない。でも、ちょっと考えてみて。これだけでは、こう言ってるのと同じなのでは?

 「自分は差別をよくないと思ってるし、差別なんてしない(差別は今もここに存在するけど)」

 ―って、これでいいわけないですよね? これじゃあ差別はなくならない、つまり、「自分が差別をしない」だけではダメなんです。

 そこで、さっきのもうひとつの立場です。「自分は差別を許さない」。このフレーズのポイントは、「差別に対抗して何かをやる」ということです。「許さない」とは、そういうニュアンスを含みます。
 差別やヘイトを見聞きしたら、何かアクションを起こす、というのが「差別を許さない人」です。そうしなければ、差別はなくならないし、差別を受ける人はいつまでも「いたたまれない」ままです。だって、「自分は差別をしない」だけの人たちは、何もしてくれないんだから。

 もちろん、差別を許さないために行動することは簡単ではないです。逆に自分が悪目立ちしちゃうのもイヤだし。まあ、でも、それでもなんかやってみようよ、ということです。
 もちろん、「それアウトだから」って穏やかに、きっぱりと態度で示せれば最高ですが、そうでなくても、例えば「差別的なネタには絶対に笑わない」とか「とにかくその場を去る」とか、「モノを落として空気を変える」とか。

 まあ、いずれにしても「差別を許さない」は簡単ではない。でも、それでも大多数の「差別をしない人たち」には、もう一歩前に出ようよ、と言いたくなります。

 ただ、ここで絶対に勘違いしてはいけないのが、本当は、「差別しない」だけで十分なはずだっていうこと。だって、みんながみんな「差別しない人」ならばなんの問題もないわけですよね。—ということで、問題の根本は「差別をしない」「ヘイトをしない」っていう、最低限のことすらできない人たちが、残念ながら一定数存在するということです。

 まるでそれが大したことではないみたいにして、どこで耳にしたか、目にしたか分からないけど、「差別用語」や「ヘイトなフレーズ」を使うような人がいます。でも、「知らなかった」は通用しません。

 そして、そんなことをやらかした経験がある人は、生徒の中にも、教員はじめ身近な大人の中にもいると思うし、実際わたし自身もやらかしたことがあります。

 で、わたしの差別的な振る舞いにストップをかけて、わたしによって傷付く人を増やさないようにしてくれたのは、たまたま身近にいた「差別を許さない人たち」と、そんな人たちが教えてくれた本や物語でした。
だから、ぼくも、「差別する人たち」にも働きかけて「差別を許さない人たち」の仲間に引き込もうという、そんなことを考えています。

 とはいえ、現状はあまりよくないです。例えば、差別やヘイトを日常の笑いのなかで語るような、そんな人間が、むしろ「本音で語る痛快なやつら」みたいに評価されることすらあるのが今です。

 でも、ちょっと考えてみてください。誰かに「自分たちとは違う何か」を見つけ出して、それをみんなで下げて笑いあったりする―そういうの「かっこいい」ですか?
 もしも誰かが未だにそんな世界の住人だとしたら、それは助け出してやらないといけないと思うんですけど、どうです? そして、なによりも、そうすれば、彼らによって傷つく人を救うことにもなるし。

 現在、成蹊高校の校則には差別禁止の項目はありません。日本全体も差別には甘々で、障害者差別禁止やヘイトスピーチ禁止など個別には法律や条例もありますが、「すべての差別」を禁止する法律はありません。

 成蹊高校には「ダイバーシティ・カード」があって、「多様性とその平等をないがしろにする全てを根絶する」ためにがんばるって宣言していますが、あれは14年前に当時の高校3年生メンバー5人が作ったものであって、学校が作ったものではありません。この宣言を生徒手帳に載せようという提案は、先送りされ続けています。わたしの力不足ももちろんあると思うけど、やっぱり学校が全体として「差別を許さない」という空気ではないんだと思います。で、それをこの学年で変えたいなと、そんなふうに思っています。

 夏休み、勉強、部活、友だち、ナイスだと思います。でも、学年のTeamsに貼った映画やいろいろ、あれを見てほしいです。

 気の遠くなるよう夏休み―というタイミングで、マイノリティであること、マジョリティであること、そして、ぼっちであること、オタクであること、LGBTQ+であること、障害者であること、外国人であること、移民であること、女子であること、男子であること、それらいくつかを同時に兼ねていることとは―みたいなことをたくさん感じて、「差別をゆるさない世界」への道を探る、そんな夏休みも悪くないと思います。機会を見つけて、またこんな話をしたいと思ってます。では、みんな、よい夏休みを。


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 夏休みは終わってしまいましたが、見渡せば、人種差別も性差別もぜんぜんなくなっていないし、異質な何かを見つけ出しては排除するような空気はネットにもリアルにもいつも漂っているような。気のせいだといいなとは思いますが。とにかく、また書き始めたので、このブログでも引き続き「差別を許さない」を発信していくつもりです。では、また。