スーザン・ソンタグ「<キャンプ>についてのノート」をまとめ直したノート | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

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Ⅰ.今回の更新内容について


 「キャンプcamp」なモノ・コト・人物を見つける、おもしろがる、志向する―という態度はそれ自体「キャンプ」な態度だし、ダイバーシティな態度のうちでも最も挑発的な態度のひとつになり得るもので、それはきっと、ダイバーシティを横領しつつ、それを「新しくて古い標語」「陳腐な標語」すなわち「行儀のいい常識」の枠に収めてしまおうとする社会的権威を動揺させるだろう―という直感で書かれたダイバーシティ担当教員の文章が、成蹊学園サスティナビリテ教育研究センター「リレーコラム」の1本としてそのHPに掲載されました。こちらになります。
https://www.seikei.ac.jp/gakuen/esd/record.html#column

 ぜひ読んでいただければと思います。で、そこでも何度も言ってますけど、<キャンプ>は、きれいな湖畔でっていうあのキャンプではないです。<キャンプ>なキャンプという可能性はもちろんあり得ますけど。

 さて、それで今回の更新内容ですが、それは、スーザン・ソンタグ「<キャンプ>についてのノート」(スーザン・ソンタグ『反解釈』ちくま学芸文庫1996/原著は1966)を現代の空気感をふまえてとにかくまとめ直してみた「スクール・ダイバーシティ版<キャンプ>についてのノート」で、当初は「リレーコラム」の一部だったものなんですけど、コラム全体がちょっと長いかなというとで、「ノート」だけを切り取って、こちら、スクール・ダイバーシティのブログの方に掲載することにしました。コラム本体とあわせて読んでいただいて、ああでもない、こうでもないという感じになっていただければと思います。


Ⅱ.「スクール・ダイバーシティ版<キャンプ>についてのノート」

 

①まずは一般論として。キャンプとは一種の審美主義である。それは世界を芸術現象として見るひとつのやり方だ。でも、その基準は、美しいか否かではなく、その人工的なスタイル(様式)のあり方であって、それがどのように「度外れ」であるかだ。

②キャンプは、作られたモノや人々の行動に見出される特質のことでもある。だから、キャンプなまなざしで、何かをキャンプにすることもできるかもしれない。でも、それ自体キャンプな映画や服装や家具やポピュラー・ソングや小説や人間や建物などもある。

③キャンプ芸術とはしばしば装飾的芸術のことであって、内容を犠牲にして、見た目に訴えるスタイルなどを強調するものだ。ただし、まったく内容のないようなものがキャンプであることはあまりない。

④「よすぎてキャンプにはならない」とか「重要すぎてキャンプにはならない」ということがある。逆に「キャンプ」の実例は「まじめ」な見方からすると、「出来が悪い」とか「俗悪」ということになりがち。

⑤「キャンプ」的であることは、人工的で、都会的で、誇張されていて、どこか外れていて―という要素を含んでいる。純粋に自然界のものは決してキャンプではありえない。

⑥キャンプ趣味は、一般には認められていない真実に惹かれることがある。男性的な男の最も美しいところはどこか女性的、とか、女性的な女の最も美しいところはどこか男性的、とか。

⑦だからキャンプは両性具有的なものにも惹かれる。でもそれもやっぱり単純ではない。おもしろがられるのは「わざとらしくてどぎつい女らしさ」だったり、「誇張された男らしさ」だったりするのだ。キャンプにおいては、「男」と「女」の交換可能性、「人」と「モノ」の交換可能性が重視される。

⑧キャンプはあらゆるものをカッコ付きで見る。トマトではなく「トマト」だ。この場合「トマト」は芝居がかったフェイクであったりするということだけど、問題は、それがどんなシチュエーションでなら「キャンプ」特有の香りを放つことになるのかということだ。

⑨「キャンプ」は17C末から18C初に出発点を置くことができるが、19C英国を経由して、「鋭くて秘密めいて倒錯的な色合いが加わってきた」という。そしてさらにアール・ヌーヴォーのムーブメントを経て、オスカー・ワイルドなどによって意識化された―とのこと。

⑩キャンプとは、ある種の誘惑の方法だ。二重の解釈ができそうな華やかな手管。分かるやつには分かるみたいな気のきいた何かであると同時に、「部外者」にとっては一般的な意味を持つような何か。その境界にいる誰かたちは、これ、知りたくなるでしょ、その何かが何なのか。キャンプするということは、ある何かがもっている「まとも」で公的な意味の背後に、そのものがもたらす私的でふざけた体験を見出すことでもある。奇妙だし、俗悪だし、不道徳にも見えるけど、分かるやつは分かる何かって駆り立てるでしょ。

⑪キャンプには、純粋なキャンプと意図的なキャンプがある。自らがキャンプであることを知っているキャンプは、普通は純粋なキャンプほどおもしろくない。キャンプは、完全に素朴であるか、完全に意識的であるか(つまり、わざとキャンプ的に振る舞う場合)のどちらかで、意図的なキャンプはとても危険だ。でもリスキーだからこそおもしろいという可能性に賭けるのはナイスでは?オスカー・ワイルドはこう言ってる。「人間を善いのと悪いのに分けるなんて、馬鹿げています。人間は魅力があるか退屈かですよ。」(『ウィンダミン卿夫人の扇』より)

⑫例えば、女装する男を侮蔑的におもしろがるための女装は、キャンプにならない。それは「自らの主題と素材とに対する軽蔑」であって、それではダメなのだ。女装自体に焦がれるような情熱を注ぐような女装であれば、その「度外れ」はキャンプになる。もちろん男装もそうだ。

⑬300万枚の羽根でできたドレスで堂々と歩き回っている女も男もキャンプだ。

⑭ガウディはキャンプな人だ。建築が世代を遥かに超えて文化になることを目指したその、常軌を逸した精神はキャンプだ。もちろんあの建築物自体もキャンプだけど。

⑮キャンプとは何か一般的な観点からは異常に見えることをしようとする試みのことである。ただ、異常なといっても、特別な、魅力的なという意味においてであることが多い。

⑯キャンプ趣味が珍重するものは、古くなったり質が悪くなったりする過程を通じて、必要な距離が生まれたり、必要な共感が呼びさまされたりしたものが多い。ものは古くなったときにキャンプ的になるのではなく、われわれとそのものとのつながりが弱くなり、そこで試みられていることが失敗しているのにわれわれが腹を立てず、むしろそれを楽しむようになったときに、キャンプ的になるのである。

⑰キャンプ趣味は、良いか悪いかを軸とした通常の審美的判断に背を向ける。良いものを悪いと言ったり、悪いものを良いと言ったりするのがキャンプではなく、キャンプがやるのは、芸術、そして人生に対して、別の、あるいはさらなる、判断基準を提供することである。

⑱芸術的成功、意図と結果が直線的に結びつくような成功は、素晴らしいとされるけど、失敗も苦痛も残酷も錯乱も、真摯で真面目な創作の結果としてキャンプにはなりうる。

⑲ある途方もない努力や成果が、キャンプにならないとすると、そこに欠けているのは、視覚的華麗さや芝居がかった何かだ。

⑳キャンプは、真面目なものを王座から引きずりおろそうとする。キャンプはふざけていて、不真面目だ。キャンプは、真面目さに対して、新しくて、より複雑な関係を作り出そうとしている。わたしたちは、不真面目なものに対して真面目になることも、真面目なものに対して不真面目になることもできるのだ。「誠実さ」だけでは充分でないことに気づいたとき、人はキャンプにひかれる。誠実さは、要するに無教養ないし知的偏狭さにすぎないかもしれない。

㉑真面目さを超えるための伝統的な手段、アイロニー、風刺なんかは、今日では弱いものに感じられる。それは、すでに十分にメディアに鍛えられている現代人にはふさわしくない。キャンプは新しいやり方を提示する。それは、さまざまな意味での人工、芝居がかりだ。

㉒キャンプは現代のダンディイズムである。大衆文化の時代において、いかにしてダンディとなるかという問いに対する答えが、キャンプなのだ。高尚なものとされるものが大好きな人たちも旧式ダンディーも眉をひそめるようないろいろにおもしろさを見つけ出して身に纏うのがキャンプであり、新しいダンディー。退屈なモノ・コトからの離脱を図る。キャンプは道徳的憤慨を骨抜きにする。

㉓キャンプと同性愛の距離は近い。もちろん同性愛者がみんなキャンプ趣味というわけではない。でも、同性愛者は、キャンプの最前線をなしているし、その受容者でもある。

㉔それは、ユダヤ人が、概して進歩的、革新的であるのと似ている。彼らをめぐる歴史と社会が彼らをそのような方向へと導いたのかもしれない。同性愛者とユダヤ人は、都市文化のなかで、創造的少数者グループとして際立っている。

㉕キャンプとは、スタイルをスタイルとして身につけることが、よくないこととして見られるような時代・社会で、スタイルに対してとりうる関係のことかもしれない。

㉖キャンプの経験は、高尚な文化の感覚だけが洗練を独占しているわけではないという大発見に基礎をおいている。悪趣味についての良い趣味を発見することは、わたしたちをまったく自由にしてくれる。

㉗キャンプは寛容で、快楽を求めていて、やさしい。悪意やシニシズムに見えたとしても。キャンプは、真面目になることはダサいみたいなことは決して言わない。真面目にやって結果を出す人を冷笑したりしない。キャンプは、ある種の情熱のこもった失敗のなかに、成功を見いだす。

㉘キャンプ趣味とは、一種の愛情 –、人間性に対する愛情だ。それは、ちょっとした勝利や性格の奇妙な過剰さを判断するのではなく、めでるのだ。キャンプ趣味は、それが楽しんでいる対象に共感する。この感覚を身につけている人は、《キャンプ》というレッテルを貼ったものを笑っているのではなく、それを楽しんでいる。


 以上、スーザン・ソンタグの58のメモを、現代の空気だとこんな感じ?という意訳を経由して、28のメモにまとめ直してみたわけですが、それぞれがそれぞれを補強するようなパターンばかりではなくて、その逆になってしまうようなものもあって、そういう側面も含めて、「キャンプ」ってなんだ?挑発的ダイバーシティって?―といったことを考えるヒントになるといいかなというところなんですけど、どうでしょう? お手数ですが、コラム本体の方と行き来していただいて、終わりなきキャンプ論、そして、ダイバーシティ論にはまっていただければと。