あしたもいっしょ

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生きてりゃ誰もが通る道「わたし編」

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入院後のエコー検査で、「何かがあるかも?」と疑いをかけられた主人の膀胱。
泌尿器科で検査を受けた結果

膀胱がん

だった。

泌尿器科の医師いわく「この段階で見つかったのは奇跡」
というほど、小さな癌が2つ見つかったとのこと。

エコー検査の研修技師のおかげで、感謝してもしきれない。

かかりつけの病院でもエコー検査は受けたのだが、膀胱までは検査していないので、
「腎臓や肝臓は大丈夫ですね」の言葉に安心していた。

膀胱がんの手術は、糖尿病がある程度まで落ち着いてから、ということになった。

もともとの持病、肝機能障害、糖尿病、
それに加えて膀胱がん・・・。

爆弾がまた一つ増えた、と思った。

電話越しの主人は冷静に話していたが、不安でしかたなかったはず。
不安を増幅させないように、「小さいのが2個だけなら、取ってしまえば大丈夫だね!今回、エコー検査で研修で見てくれて発見できたのは、すごい幸運だったね。今わかって良かったんだよ」と声をかけた。


私はこれまで何だかんだ言って、わりと好きなことを自由にやってきて、
不運な時には誰かが手を差し伸べてくれて、ギリギリのところで切り抜けてきた。
でも人生は帳尻が合うようになっているから、今までラッキーだった分、人生の何処かで落ちる時がくるはず、といつも不安が心の端っこにあった。

母のこと、主人のこと、そして、確実に進行していく父のアルツハイマー型の認知症。
不安の波が一気に押し寄せ、私を飲み込もうとしているようなイメージが頭に浮かんだ。

 

2020年6月12日

糖尿病の診断を受け即入院となった主人。
いわゆる「教育入院」というものらしく、10日間の入院となった。
患者と家族が糖尿病を正しく理解し、合併症の予防と進行防止に対して
効果的な治療をすることが目的の入院らしい。

インスリン接種の方法・食事・運動など今後の生活に関わることや、
糖尿病について学習するための入院。

糖尿病は知れば知るほど恐い病気。
一度罹ると一生付き合わなければならないし、様々な合併症に注意しなければならない。

主人はもともと虚弱体質で、時折パタッと倒れることがあったが、もともとだからと低血圧などのせいにしていたが、低血糖になっていたのかもしれない。
当時こうなる前の2,3か月は食欲が少し落ち、喉が渇くと水分ばかり摂っていて、体重も落ち始めていた。
持病の治療で太ってしまっていたので、体重が落ちることはいいことだと喜んでいたくらいだった。
しかし、体重が落ちたのは、糖尿病になってしまっていて、いくら食べても栄養失調状態になっていたからだと後になって分かった。


病室に案内されたあと主人は持参したパジャマに着替え、早速、入院患者となった。
病院で用意したパジャマは嫌だという謎のこだわりw

担当医が病室を訪れ「念のためエコー検査もしましょう」
とのことでエコー検査室へ。

30分ほど待っていたら主人が検査室から出てきて言った。

「なんかね、膀胱に何かがあるかもしれない、って言われた。」

普通は膀胱まで検査はしないらしいが、たまたま研修中の検査技師の方が、
研修のために色々診てくれたらしい。

金曜日の夕方近い時間になっていたので、泌尿器科での診察は月曜日となった。


 

両親が引っ越してきて、家の内装やらでバタバタしている最中、2週間ほど経った頃。

朝、目を覚ました主人が、左足が激しくしびれて足を床につけない、と言う。

また変な格好して寝たんでしょ・・・と、最初は笑っていたが、
しびれは1時間経っても引かない。

左足の甲には、今までなかった茶色のシミのような斑点だらけだった。

これは普通じゃない。

かかりつけの病院、これまたお隣の先生の病院で、電話をしてみた。
すると看護師長さんが、
「今すぐ来てください。先日の血液検査で心配な結果が出ています。」

その病院では、私は喘息で、主人は肝機能障害で薬を処方していただいていた。

曜日ごとに出張医が来ているのだけど、その日は私の担当医の呼吸器専門の先生だった。
血糖値の数値が300超えの検査結果が出ていたため、私の担当医は糖尿病を疑った。
しかし院長は主人の足の甲にできたシミを診て、「う~ん」と首をかしげる。
「糖尿病でこんなの見たことないな・・・。わからない。」

足の方は別の病院の整形外科で診てもらうよう、すぐ手配していただき、車で10分ほどの所の別の病院へ。
整形外科の分野では全く問題なし。

再びかかりつけの病院へ戻る。

まずは糖尿病に間違いないだろうとのことで、インスリン注射をすることに。
それから毎日インスリンを打ちに通院するけれど、血糖値は下がらず、10日ほど経過した。

かかりつけの病院では対応できない、とのことで地元で一番大きな総合病院での診察の手配をしてくれた。

総合病院の担当医:「間違いなく糖尿病ですね。まずは明日から入院しましょう。」

続きます・・・。

2年前に遡って私の家族のことを書いていますが、
先日、10日ほど前に従兄弟が倒れた話をさせていただきました。

 

 

 

その続きです。

先週の木曜日、意識が戻りました。


少しでも元気になればと思い、ケーキを沢山買って従兄弟宅へ行ってきました。
奥さんも子供たちも疲労がうかがえました。


心臓の冠動脈が10センチほど詰まっていたとのこと。
そして、検査中に心肺停止。
カテーテルで2本の血管が傷つき大量出血。


手術直後から木曜日まで、覚悟してください。
と、医者から何度も言われたとのこと。



それを聞いて「この医者、やる気あるのか!」
と、私の主人はかなり憤りました。

家族に覚悟を求める前に、できること全部やったのか?!
人が持つ生命力を底上げする助けはしたのか?!

・・・主人がその場にいなくて良かった。
絶対暴れていた(笑。



奥さんが話してくれた従兄弟の様子は、
嗄声はあるものの電話で奥さんと会話ができたとのこと。
子供たちの名前を一人ひとり呼んで、
「心配かけたな、でも俺頑張るから」と言ったとのこと。

今日あたりにはICUから一般病棟へ移動していると思います。

従兄弟は今、とても辛い思いをしながら、全力で頑張っています。



同じような境遇で頑張っていらっしゃる方々の励みになれば嬉しいです。

 

一緒に住もう、と電話をしてから、わずか2日後に引っ越してきた父と母。

父は帰ってきたことがよっぽど嬉しかったのか、子供のようにはしゃぎ、
あちこちに電話して報告していた。

母は人には知られずにひっそりと逝きたいと思っていたし、それを父にも言っていたが、
認知症が進んだせいなのか、そんなことはお構いなしだった。

母は本当に末期癌なのか、と思うほど終活に忙しく走り回っている。

母は自分が動けるうちにと思ったのだろう。
越してきてからは、保険、銀行、不動産などの手続きを優先して動いていた。

金曜日に引っ越してきて翌週の月曜日には、お願いしていたお隣の先生の病院にも行った。
すでに前の病院から情報が届いており、院長室で現在の状態、これから先のことなど説明を受けた。

前の病院の診断と同じことを言われ、わかっていてもショックだった。

私の主人は、製薬会社の友人に連絡しながら、治療法を模索していた。
絶対に諦めない、と何度も何度も口にした。



引っ越してきてから1週間ほど経った頃、母がポツリと言った。

「前の家の庭に残してきたカサブランカ・・・。持ってきたら良かったな。」

そのカサブランカの花は、20年以上前、私が母の日にプレゼントしたものを、
母は大切に育て、毎年、見事な花を咲かせていたものだ。

「今から取りに行こうか?」

「え?いいの?大変じゃない?」

「行こう!」

小1時間ほど車を走らせ、前の家へ行き、カサブランカを掘り起こした。

母がずっと大事にしてくれていた私との絆のようで、嬉しく悲しかった。


そのカサブランカは、私のとても小さな庭で、今年も見事な花を咲かせてくれた。
 

 

 

 

 

 

 

こんにちは。

 

いつもは2年前に母が入院したところから、

時系列で書いていますが、

今日はそこから外れて今起こっていることを少し・・・。

 

昨日の夕方、大阪の叔母から久しぶりの電話。

 

「あのな、いい話やないんやけど・・・」

と泣き崩れた叔母。

 

私と同じ街に住む私の従兄弟のことでした。

 

朝、起きたときに「胸がいたい」と救急搬送され、

検査中に心臓が止まったとのこと。

 

そしてカテーテルで心臓部の血管を2本傷つけられ、

緊急手術をし、夜中の1時頃終わったとのこと。

 

従兄弟の父(私の叔父)からの又聞きなのと、

混乱しているのか、色々つじつま合わないことがあるので、

直接聞くのが一番ですが、

叔父や従兄弟の家族の心境を思うと、

近くにいながら遠くから見守ることしかできません。

 

従兄弟には愛するお嫁さんと3人の子供がいて、

親戚の私が言うのも何ですが、

こんないい人いるの?!

と言うほど本当に良い人なんです。

 

今日は上の娘が声をかけたら、微かに反応したとのこと。

でも目は閉じたままです。

 

従兄弟が生まれた時、私は7歳で、その子が可愛くて

毎日顔を見に行ってお姉ちゃん気取りでした。

昨日から赤ちゃんだった従兄弟の姿ばかり思い出しています。

 

昨日、今日の話なので、

これからのことはまだまだ分かりませんが、

従兄弟の家族や叔父に対して、

私は何ができるのだろう・・・

そんなことを考えています。

 

 

皆様もお身体ご自愛くださいね。

 

 

 

 

 

 

我が家の車は2ドア。

2020年3月に母と決定打となる揉め事があり、
その直後のタイミングで車を買い替えた。

親の気まぐれに何度となく振り回されてきたけれど、
もういいよね、と子どもとしての責任を手放し、身軽になった。


「これからはずっと2人だから、2ドアでいいよね。」

と、乗りたかった車を購入した。
令和の今でもセダンが好きで、流行りの車に興味がない。


そんな矢先の5月。主人も苦笑した。

その2ドアの車には収納スペースはあまりない。
病院から父が待つ家に戻り、父と猫、
そして猫のトイレを車に積んだら、多くのものは積めない。

必要最小限のものをできるだけ積めて、地元へ。

狭い車内、父も母も嬉しくて興奮気味だった。

「いやあ急に世話になることになってしまって悪いな・・・。
だけど、やっぱり地元でお前たちと暮らすのが夢だったんだよなあ。」
・・・と、全然、申し訳なさそうではない嬉々とした口調。

1時間ほどのドライブで家に到着すると、主人が温かく親を迎えてくれた。
「よく来てくれましたね。
これからみんなで楽しく暮らしましょう。」

その日の夜は、家のすぐそばで叔父が営む居酒屋に弟夫婦も呼んで、
みんなで引っ越し祝いをして、記念写真を撮った。
その写真の中の母は、弾けるような笑顔だった。

2020年5月22日。

ほぼ睡眠ゼロの状態で、父母の暮らす街へ向かう。
高速に乗れば30分ほどの道のりだけど、
運転が下手である自覚に、睡眠不足も加わって、
国道を1時間走って、母の元へ。

玄関先で私を迎えてくれた母は何だか嬉しそう。
残りの時間を希望通りに過ごせるのが嬉しいのだろう。
残酷な現実の中でも幸せを感じている母の姿を見て、
私は快く受け入れを決めてくれた主人と主人の家族に感謝した。

さあ、病院で先生とお別れしてこよう。

私は母の診察をしてくれた先生とは、これが最初で最後。
若くて真面目で口下手な先生は、私に母の病状を説明してくれた。

5月15日にガン宣告をしてから1週間。

先生はその間、母に今後のことを考えるように時間を与えてくれたのだった。

「実は、今日この後、娘夫婦の元へ行くことにしました。
なので、今後はあちらの病院で診てもらうことにします。」

先生はとても驚いていた。

「抗がん剤とか放射線治療は受けないってことですか?」

きっぱり受けないことを言う母に先生は何度も聞いた。

「可能性がゼロではないんですよ。
大学病院で抗がん剤と放射線治療をすれば、少し時間を伸ばすことができるかもしれないんですよ。」

と、母を説得していたが、

「ゼロじゃない、ってほぼゼロってことですよね。
抗がん剤で辛い思いした分、伸びたって全然嬉しくない。」

と頑なに拒否。

先生は悲しそうな目をしていた。

私は複雑な気持ちだった。
母の人生は母が決めればいい、と尊重したい気持ちと、
助かるなら何としてでも頑張ってほしい、という気持ち。

帰りの車を走らせていると、その道のりは遅咲きの桜が満開だった。
来年も見せてあげたいな、と思ったら、
桜のピンクが滲んできた。

 

 

私の夫は生まれつきとても体が弱く、病院とのお付き合いが長い。
この頃も1,2か月前から謎の微熱が続いたり、ふらついたり、
様々な軽微な症状が出ていた。

引っ越しの最中も何度も夫はふらついて倒れながらも、
それでも無理して荷物を運んでいた。

夫はそれまでもしょっちゅう立ちくらみをしていたので、

急に体を動かしたから・・・・
と、いつもの立ちくらみだと思った。

「お願い、休んでいて・・・」と声をかけたが、夫は動いては倒れ、を繰り返した。
夫を心配しつつも、今は荷物を2階に上げなきゃ間に合わない!と私も必死だった。

ありがたいことに弟夫婦は手際がよく、
その日の夜中には、多くのものを2階に運ぶことができた。

翌日は夫を2階で休ませ、1階に残っているものをひとりですべて片付け、
猫の引っかき傷で壁がボロボロながらも、せめて清潔な状態で母を迎えてあげよう
と、ほぼ徹夜で掃除した。

我が家のお隣は、地元病院の理事長先生のお宅である。
その病院は看取りをしているので、母は最後はそこでお世話になりたいと言っていた。

引っ越し最中、部屋がごった返している中、先生が車で帰宅した。
わたしは先生に母の現状を伝え、看取り看護のお願いをした。

先生は親分肌の人なので、口は悪いし、大威張りするけど、根は良い方。
すぐに自分の名刺に担当医師への指示をメモ書きしたものを持ってきてくれた。

「これを医者に渡しなさい。すぐに全ての情報をこちらに送るように言いなさい。

俺の名前を見ればすぐに対応してくれるはずだから。
ま、俺を知らないようだったら、そいつはモグリだ。」

金曜日に母が引っ越してくることを伝えると、

「今から病院に戻って院長とソーシャルワーカーに話しておくので、月曜日の朝、お母さんを連れて来なさい。」

「お母さんのことは、俺が責任を持って最期を看るから任せなさい。」

頼もしい言葉に泣きそうになった。



が、今は泣いている暇などない!1階の荷物を2階に上げなきゃ!!