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あしたもいっしょ

生きてりゃ誰もが通る道「わたし編」

母に同居を伝えたのが、5月20日(水)。
その時には、1,2週間で迎え入れる準備をすると話した。
5月22日(金)は再び母は通院で、その時は私が付き添う予定だった。

5月15日で休業明けして、すでに仕事も再開していた。

母に同居の話をし電話を切った後すぐに、母からの電話が鳴った。

「22日病院に行くのにこっちへ来た時に、悪いけど先に猫だけそっちへ連れていって」

 



両親宅には24歳になる老猫チビがいた。
チビは1階で父と寝ている。
夜中、何度も起こすので、母はずっと2階の別室で寝ていたのだが、
一人で寝るのは不安だから、父と同じ部屋で寝たい。
だからまずはチビだけでも連れて行ってほしいとのことだった。

我が家にも3匹猫がいる。

チビは別室で面倒みるか・・・。
母の希望はできるだけ叶えてあげよう。
しかたない、せめてもの親孝行だな・・・なんて、思っていた。


が、しかし!



チビ快諾電話の数時間後、仕事中に再び母からの電話。


「申し訳ないんだけど・・・(←一応、遠慮がち))
金曜日、チビだけじゃなくて、
わたしとお父さんもそっちへ連れて行って!」


まじかッ!

母のせっかちさを分かっていながら、そうくることを予測すべきだった。


「でも1階はうちの猫たちが壁ボロボロにしているから、壁紙の貼り直しなどもあるし、
2階も少しリフォームが必要だから、それが終わらないことには・・・・」

と、私は後ずさり。


でも、母の「決めたら今すぐ実行しなきゃ気が済まない!」
のキャラに勝てる者は誰もいない。


その日と翌日の仕事をすべてキャンセルし、
わたしたち夫婦の居住スペースを1階から2階へ移動しなければならなかった。

すでに夕方になっていた。
22日の金曜日は朝から母の病院の付き添いなので、
実質1日半しかない!!!


二人では埒が明かない。
弟夫婦を緊急招集した。
 

母が癌の診断を受けてから毎日電話で話をした。
治療はしない、という母の決断は揺るぐことはなかった。

苦しむことなく安心した気持ちで人生を終えたい、
それだけが母の望みだった。

よく余命3か月とか1年とか、数字で宣告を受ける話を聞くが、
母の場合は「月単位」とぼかした表現だった。

つまりいつどうなってもおかしくない状態。

私の弟夫婦も地元で、私の自宅から車で5分ほどの所に住んでいる。
「弟夫婦のところでお世話になれないの?」と母に聞くと、
「いや、それは嫌。行きたくない。」との返事。

私は焦った。
できることなら、私達の元へ呼んであげたい。
でも私がそれを主人に言えるわけがなかった。
これまでの両親の気まぐれで何度となく主人の心は踏みにじられた。
それでも主人はその度に私の両親を許してくれたし、助けになってくれた。

私は板挟みの状態の気分だった。
結婚した以上、最優先すべきは主人のこと。
頭では分かっていても、親は親だ。

2020年5月15日に癌宣告を受けてから数日後、
主人がぽつりと言った。

「お母さんお父さんをこっちに呼んでいいよ。」

母に電話で伝えると、これ以上の喜びはないというほど喜んでくれた。
 

私の父母は自営業を営み、父が75歳になった年に、母が区切りをつけて隠居した。
最終日は多くのお客様に惜しまれて、華々しくも清々しい仕事人生の幕の下ろし方だった。
そんな父母を私は心から尊敬し、感謝している。

隠居後は、私と私の夫との同居を望んだ。
知り合いの建築会社にリフォームを頼むことにし、同居に向けての準備が着々と進み始めた。

ある日、夫が一人で父母の家を訪ね、父母は同居することをとても楽しみにし和気あいあいと話をしたそうだ。父は涙を流して喜んでいたそうだ。それを話してくれる夫もとても嬉しそうで、私は幸せを噛みしめた。

その翌日、父母は貸家にしていた持ち家が空き鍵の引き渡しに行った。
その後、父からの電話「あっちに住むことにしたから、同居の話は無しで・・・悪いな」
と、前夜の主人との話はまるでなかったことのように、軽い口調で言った。


夫は相当の覚悟を持って同居に承諾した。
私と違って夫は繊細で優しい人で、人が喜んでくれるなら犠牲を惜しまない人だ。
そんな夫の気持ちを踏みにじった不義理な父母に私は怒りに震えた。
前夜の涙はなんだったんだ?

嬉々として引っ越していった私の親のその後は予想通りだった。
地元に戻りたい。

何度となく地元に帰りたいと言う度、親の気まぐれに私たち夫婦は振り回された。私は年に2回ほど手頃な物件を探すハメになった。5月に母がこうなる前の3月にも仮契約まで進んだところでドタキャンし、私たち夫婦は2人きりで気楽に暮らしていこうと改めて決めた。そんな矢先、母は末期癌の宣告を受けたのだった。

母は本当ならこちらに戻りたい。
でもこれまでの経緯を考えると、私たち夫婦には頼めない。
だからといって息子夫婦のところには行けない。

口に出せない母の本心がチクチクと私の胸に刺さった。

母には2つの心配事があった。
その内の1つが父との生活のことだ。

当時、私の父母は地元から車で約1時間のところにある地方都市に住んでいた。
貸家にしていた持ち家が空いたことをきっかけに4年前に引っ越していった。

そこは車がないとどこへ行くにも不便な住宅街。

父は引っ越して間もなく少しずつ奇行が見られるようになっていた。
3車線の大通りで車で逆走するなど、自分の命どころか他所様の命まで危険に晒す可能性があることを何度か繰り返し、母が無理やり車を手放させた。

病院へ行くにもバスを乗り継いで行かなければならない。

それよりもこれからどんどん辛い状況になっていくのが分かっていながら、自分の世話を父には任せられないという不安が大きかった。

「お父さんこんなだから、これから二人で暮らしていく自信がない・・・。」
自分の人生をきちんと終わらせたい、
だけどこのままではどうしていいのか分からない・・・
と、突然、最期を間近に感じ焦っていた。

そんな母の心配をよそに父は相変わらず。
一つ覚えのプレステで麻雀ゲームに一日中耽っていた。

主人は母の決断を受け入れなかった。

「無知は罪だ」が口癖の主人。

なんでそんな簡単に諦めるんだ!

医者の言うことが全てじゃないだろう!
一緒に話を聞いた弟くんはそこで何もしなかったのか?
と憤った。

 

実母でもない私の母のことを、そこまで真剣に思ってくれる主人の気持ちが嬉しかった。

すぐに製薬会社に勤める友人や、看護師長をしていた主人の姉など、医療に詳しい知人に連絡を取り始めた。

製薬会社の友人から聞いた話は、ここでは書かないことにする。

看護師長だった主人の姉は「やっぱりそうか」と。
胆管炎と聞くと、肝臓がんがかなり進行している状態の可能性が高く、1週間の入院で退院できたことは奇跡だと思っていたそうだ。

主人の古くからの知人でかなり進行した癌から克服した方がいるので、その方にも話を聞いてもらった。治療は語り尽くせぬほど壮絶なものだったこと、母の状態ならば意志を尊重することも大切だ、と丁寧に優しく教えてくれた。

調べていくうちに標準治療以外でいろいろな治療法があることがわかった。
助かるかもしれない。

暗闇の中に光が見えた。

癌の告知を受けた母に私は聞きたいことがたくさんあった。

母は「ずっと病院かかって検査もしていたのに・・・もうだめなんだって」
と乾いた声で私に言った。

だめってどういうこと?
手術は?抗がん剤は?放射線治療は?

手術するには難しい場所であること、
そして母の年齢の患者には通常、手術はすすめないとのこと。

私は初めて母が70代に達した高齢であることを意識した。
母も同じだった。

「お母さん、高齢なんだって・・・。」と、母がぽつり。

「抗がん剤での治療はできるんじゃないの?」

「いや、しないよ。抗がん剤で苦しい思いをして2,3か月余命が伸びたって嬉しくない。」

医者との話を聞くと、抗がん剤治療での回復は

「ゼロパーセントではない」とのこと。

「ゼロパーセントじゃないって、それはもうだめってことと同じですよね」
と母は医者に言い、その場で何もしないことを決めたと言った。

 

2020年5月15日。

 

この日は両親の住む町で仕事があると、

弟が母を病院へ連れて行ってくれることになった。

 

 

 

末期の癌だった・・・。

 

 

 

肝臓ではなく、肝臓を通る太い血管である

「門脈」という部分に癌ができているのだという。

 

電話の向こうの母はサバサバした様子で私に報告してきた。

2020年5月11日、母は退院した。

新型コロナウィルスの影響で、病院は厳戒態勢。

母を迎えに病棟へ上がるエレベーター前で、氏名・要件・体温の確認を受けた。

 

病棟の階へ行くと、病室に入ることは許されずラウンジで待つよう言われる。

病室まで入ることができないため、病み上がりの母は自分で荷物を運ばなければならない。

 

長い廊下の向こう側から母がやってきた。

ようやく会えた。

元々痩せているのに、絶食治療でさらに痩せた母。

 

入院疲れも見えるが、退院できたことにホッとしていた母。

 

いつもは早足の母の足取りはゆっくりだが、スーパーへ寄りたいと言う。

体力が落ちているはずなので、まずは家でゆっくりしてほしいと思ったが、

スーパーの店内をくまなく歩いて沢山の食品を買い込む母の姿に安堵した。

 

4日後の金曜日に受診するとのこと。

これで大丈夫・・・と誰もが思っていた。

 

 

 

 

 

母が入院中、父は老猫と独居となる。

現役時代の父であれば、料理も家事も心配なしの

できた男であった。

 

しかし、数年前に隠居するようになると、

一日中麻雀ゲームに明け暮れるニートになってしまった。

 

当時、父は81歳。

前の年には父の傘寿を家族で祝った。

 

一人で自転車で出かけて、鍵がかかった状態のまま

自転車が動かなくなったと思い込み、持ち上げながら歩いて帰ってくるなど

奇行が目立つようになってきていた。

 

そんな感じだったので、母の留守中は弟のお嫁さんが父のお世話に来てくれることになった。

 

そのお嫁さんから電話が入った。

「お姉ちゃん、お父さんがおかしい」

 

その日は寝てばかりいるという。

様子を聞きながら、色々話しているうちに、ふと思った。

 

私:「申し訳ないんだけど、ゴミ箱の中に薬の殻ないかどうか見てもらえないかな」

嫁ちゃん:「あ、ありました!」

 

母が普段飲んでいる眠剤を間違って飲んでいた・・・。

 

気が利くお嫁さんは、すぐに市の福祉に電話し、介護認定をもらう手続きをしてくれた。

 

 

 

母は胆管炎との診断を受けた。

38.5℃の発熱は炎症からくるものだった。

 

1週間入院予定で、3日間は絶食だという。

母が入院するのは初めてのことだが、

電話の声は比較的元気で、父のことを案じていた。

 

もともとB型肝炎キャリアで長年病院にかかり、

肝炎ウィルスを抑える薬を飲んでいた母。

定期的に検査も受けていた。

 

「ゆっくり休んで早くよくなるんだよ」と私が言うと、

同じ病室の隣のベッドのおばさんが腰が痛いらしく、

ことあるごとに母に助けを求めるから、

寝てもいられない、と母は電話越しに笑っていた。

 

それぐらい余裕があるなら大丈夫。

1週間の入院で済むなら良かった・・・

と皆、安堵した。