新潟ベンチマークツアー2社目は、1社目ベルナティオと同様十日町にある株式会社きものブレイン、1976年創業の会社である。十日町は元々全国屈指の着物の産地ではあり、この町で呉服卸売業としてスタートしたが、「大切な着物は汚すと大変なので着ないようにしている」という消費者の声を聞き、これこそが「着物離れ」の最大の要因と危機感を持ち、1980年「きものアフターケア」の専門店をスタートした。当初はただでさえ着物は売れなくなっているのに、そんなことをしたらますます売れなくなるとみんなに反対されたという。ずっと赤字続きで、後一年ダメだったら辞めようと考えていた頃、バブル崩壊に直面、それからは黒字転換し業績も拡大、同業他社からみんなに技術を教えてくれと頼まれるようになった。しかし、スタートは儲かる儲からないではなく、消費者が求めているかどうかだったという。会社到着後、最初の講話は創業者の岡元松男社長だった。ずっと入院されていたそうで退院も最近、よって30分ほど話されて退席されたが会社の基盤を作られた創業者にお会いできて実際にお話を聞けたのは幸運だった。盛和塾で学んだそうで、ミッション、経営理念は徹底したという。その後は今後の新事業のお話を多く時間を割いていた。社長の後は、娘の松田章奈専務に講話は移り、社内の人事制度や社員教育、それと有名になった障がい者雇用について話していただいた。(そのあたりを評価されてか2012年に「日本でいちばん大切にしたい会社大賞 審査委員会特別賞を受賞している)その後は社内の作業現場を含めてほとんど全ての部署を見学させてもらった。障がい者も含めてすべての社員が訪問者に起立して挨拶をしていたのは、見学者が皆驚いていた。着物の修復と言っても、破損状態は様々でそれぞれの部署部署で職人さんが作業をしていたが、全国から送られてくる破損した着物をどの部署に回して修理してそれを間違いなくお客さんに送り返す作業は、かなり高度な管理技術が必要なのではないかと思った。私が今回の着物ブレインで感じたことが3つほど。まず、中小企業は北海道の植松電機の植松社長の話にもあったが、対抗不能性という言葉。「あえて相手と同じ土俵にのらないという考え方だ。植松社長は争いごとを避けてきた。限られた市場を、互いにつぶし合う形で争奪戦をして他者を踏み台にして生き残ったとしても嫌な思いが残るだけ。相手ができないこと、困難なこと、不採算なこと、などをどうしたらいいかを考え工夫できたものだけが生き残れるだろう」というものだ。創業者の岡元社長はまさに「対抗不能性」を実践し、成功させた事例といえるだろう。出発点は儲ける儲けるない、ではなかった。しかし、家業で出発した会社は現在257名の従業員を雇用し十日町に4つの工場と事務所、京都支店を、ベトナムにも子会社を持つまでになった。(私は日本の伝統産業である着物までこちらの会社でもベトナムで93パーセント縫製して日本では7パーセントだということを聞き驚いた)2つ目は障がい者雇用。障がい者はこの会社で現在33名も働いている。全従業員の12パーセントにもなるのだ。社長の奥さんに障がい者の姪がいたのが、障がい者雇用に関わるきっかけとなったようだが、普通に効率とか能率を考えれば障がい者雇用などバカバカしいだけかもしれない。社長が苦労人で優しい性格であったので可能になったわけだが、これも「きもののアフターケア」と一緒で最初に儲けありきだったわけではないだろう。ただ、これも人本経営企業はもちろん多くの企業で障がい者雇用が当然のものと見なされるようになったのは、単に「社会福祉」や「弱者保護」の観点からだけではなく、企業が障がい者を雇用することで社員が「優しさ」や「思いやり」が深化し、結果、企業業績も好転するという点が顕著になったということだろう。企業のイメージアップにもつながるし。今回の訪問で社長夫人の岡元眞弓さんが書かれた「障がい者雇用エッセイ集」をいただいたが、その取り組みは決してきれいごとではない、大変な苦労があったことを思い知らされた。(誤解を招く表現かもしれないが障がい者の子供の少なくない人は結構甘やかされて育っていて、感情が未熟な者も多い。子供時代のヘレンケラーとサリバン先生の初期の壮絶な格闘のような躾や教育を思い浮かべてもらえれば良い)きものブレインの雇用理念は「区別はするが差別はしない。配慮はするが特別扱いはしない。チャンスは誰しも平等に与えられているものだ」と。精神的に不安定な障がい者に時にはきびしく向き合い、彼らの成長を心から喜んでいる岡元さんのエッセイ集は障がい者雇用を検討している経営者には随分参考になる事例集でもあった。3つ目は新事業のことだが、みどりまゆという蚕の一種がつむぐ繭から、ものすごい量のフラグノイドという栄養素が含まれていて、これを化粧品や健康食品として販売しようというものである。プロのPR会社に依頼してブランドイメージを高め、雑誌にも取り上げてもらったそうである。その他にも着物文化村のようなテーマパークも作る予定だそうだ。これらのことを聞いて瞬時に頭に浮かんだのは、長野の伊那食品工業だった。以前訪問した際、講話して下さった役員さんが「当社は将来は寒天を作ってないかもしれません」と言っていたが、伊那食品工業は食品だけでなく、医療品や園芸用品にまで様々な分野に手を広げている。きものブレインもこの先どう考えても着物は斜陽産業であり、他業種への進出は必要不可欠なものになっていくだろう。伊那食品工業は元々自然林だったところを整地して工場を作ったところなので、いたるところに樹木がありまさにテーマパークのようなところなのだが、着物文化村もそれに近いものになるのだろうか。しかし、これは両社とも常に研究開発や時代の変化への対応を怠らず、社員の雇用や地域への貢献を大切に考えているから、結果的に似たような道を歩むことになるのだろうと推察する。今回のきものブレインさんのベンチマークで、上記の「対抗不能性」「障がい者雇用」「研究開発や時代の変化への対応」といった多くの人本経営企業が実践している実例を見させていただいた。まだ、化粧品や健康食品はスタートしたばかりだが、頑張っていただいて是非成功してもらいたいと思わずにはいられなかった。