張詠:伍員廟 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○中国、江蘇省蘇州の胥門前には、「伍子胥纪念园」が設置され、伍子胥像や伍子胥の『相土嘗水象天法地』の立派な石碑などが建っていた。また、中庭には、幾つかの伍子胥にまつわる詩作の碑が立ち並んでいた。その一つも案内しないわけにもいかない。

○それで、其の中の一つ、張詠の「伍員廟」詩を案内したい。

  【原文】

      伍員廟

       張詠

    胥也応無憾

    至哉忠孝門

    生能酬楚怨

    死固報呉恩

    直気海涛在

    片心江月在

    悠々当日者

    千載泣断魂

 

  【書き下し文】

      伍員廟

       張詠

    胥や応に憾み無かるべし、

    至れるかな、忠孝の門。

    生きては能く楚の怨みに酬ひ、

    死しては固より呉の恩に報ず。

    直気は海涛に在り、 

    片心は江月に存す。 

    悠悠たり、当日の者、

    千載泣きて魂を断たんとす。


  【我が儘勝手な私訳】

    非業の死を遂げたと言われる伍子胥に恨みなど無い、

    彼の呉王に対する忠義と父に対する孝行はこの上ない。

    生きている間に、ちゃんと故国楚への復讐を果たし、

    死ぬ際には、しっかり呉王闔閭の恩に報いている。

    伍子胥の真っ直ぐな気性はあたかも海の波のように激しく、

    伍子胥の真心は蘇州の川に浮かぶ満月のように清らかである。

    伍子胥が生きた時代は、今から1500年も昔のことだが、

    伍子胥の生き様は、今でも人々を感動させずには居ない。

 

○読んでいただければ判る通り、何とも立派な詩作である。伍子胥を遺憾なく表現していることに感心する。なかなか秀逸の出来である。伍子胥ファンの心を余すところなく表現してくれていることに感謝したい。そのために、当古代文化研究所も、遥々、日本からここを訪れている。

○なお、張詠は、中国では有名詩人であるらしい。百度百科が案内する張詠は、次の通り。

      张咏

张咏(946年-1015年),字复之,自号乖崖,世本邺人,徙濮州鄄城(今属山东)人。中国北宋政治家、文学家。

张咏年少时学击剑,好为大言,喜事奇节。于太平兴国五年(980年)中进士,授大理评事,知崇阳县。次年,改将作监丞。雍熙(984年-987年)初,先后任著作佐郎、太子中允、秘书丞、荆湖北路转运使等职。淳化四年(993年),改太常博士。此后,累任虞部郎中、寻擢枢密直学士、知通进银台司等职。咸平二年(999年)春,同知贡举,改工部侍郎知杭州。咸平五年(1002年)冬,替知永兴军府。次年,转刑部侍郎,复为枢密直学士,再知益州。后历知金陵、升州、陈州,多次因病乞归京都或分司洛下,皆不许。大中祥符八年(1015年),卒于陈州理所。

  张咏(北宋名臣)_百度百科 (baidu.com)

○インターネット検索したら、当古代文化研究所のブログが出現して、なおさら、驚いた。

  ・テーマ「岳陽・武昌」:ブログ『張詠:登黄鶴樓』

  張詠:登黄鶴樓 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○もっとも、このブログを書いたのは2013年10月のことだと言うから、10年も昔のことである。覚えているはずもない。このブログで、しっかり、張詠のことを学習している。それなのに、何も覚えていない。残念な話である。