【原文】
登黄鶴樓 張詠
重重軒檻與雲平
一度登臨萬想生
黄鶴信稀煙樹老
碧雲魂亂晩風清
何年紫陌紅塵息
終日空江白浪聲
莫道安邦是高致
此身終約到蓬瀛
【書き下し文】
黄鶴樓に登る 張詠
重重たる軒檻、雲と平らかに、
一度登り臨めば、萬想の生ず。
黄鶴の信は稀にして、煙樹の老ひ、
碧雲の魂は亂れ、晩風の清し。
何れの年か紫陌の、紅塵に息し、
終日、空江に、白浪の聲聞かん。
安邦を道ふ莫かれ、是れ高致なり、
此の身は終に約して、蓬瀛に到らん。
【我が儘勝手な私訳】
黄鶴樓は幾重もの軒と欄干が重なり、その高さは雲と等しく、
黄鶴樓に一度登って絶景を望めば、様々な思いが生じて来る。
黄鶴に乗って飛び去った仙人の伝説は昔話となり、今は繚繞な老樹が生え、
昼間の青空の陽気が乱れて、今は夕暮れ時の清らかな風が吹いている。
何時になったら、都に出て、賑やかな大道の繁華街の空気を思う存分に吸い、
一日中、浩瀚寂静な川面に舟を浮かべて、波の音を聞くことができるのだろうか。
国を治めるなどと安易に言ってはいけない、それは至高の極みなのだから。
それに、この身は最期には終息して、仙境に至ると決まっているのだから。
○張詠の「登黄鶴樓」詩は、もちろん、詩人が黄鶴樓に登ってみた時の感慨を作詩したものに他ならない。詩人は、そのことについて、首聯、
重重軒檻與雲平 重重たる軒檻、雲と平らかに、
一度登臨萬想生 一度登り臨めば、萬想の生ず。
で説明している。そして、以下の頷聯、頸聯、尾聯は、その萬想の具体的内容を案内するものとなっている。つまり、黄鶴樓は、黄鶴樓に登った人々に、万感の思いを抱かせずにはいない場所だと詩人は案内するのである。
○詩人、張詠が黄鶴樓に登って抱いた想いの一つが、黄鶴樓の名の起源伝説である。
黄鶴信稀煙樹老 黄鶴の信は稀にして、煙樹の老ひ、
碧雲魂亂晩風清 碧雲の魂は亂れ、晩風の清し。
○次に、詩人は今の自らの境遇を嘆き、詩人の憬れる都での生活を懐かしむ。
何年紫陌紅塵息 何れの年か紫陌の、紅塵に息し、
終日空江白浪聲 終日、空江に、白浪の聲聞かん。
黄鶴楼が存在するのは、辺境への入り口、武漢なのである。おそらく、詩人はここから都へ帰る旅ではなく、辺境の地へと出立する旅である。それだけに一層、都への思いが募る。
○最後に、詩人が思い至る心境は、極めて寂しいものとなっている。
莫道安邦是高致 安邦を道ふ莫かれ、是れ高致なり、
此身終約到蓬瀛 此の身は終に約して、蓬瀛に到らん。
これまで、国の将来や国の安定などを論じて来たが、国の将来や国の安定などを、この地で、あれこれと心配したところで、仕方の無いことである。それは精神的にも立場的にも余裕のある人々が出来ることであって、この地では不要である。黄鶴楼は人間をすっかり丸裸にして、個人を表出させずにはいない。
○結果、張詠の「登黄鶴樓」詩の眼目が、首聯、
重重軒檻與雲平 重重たる軒檻、雲と平らかに、
一度登臨萬想生 一度登り臨めば、萬想の生ず。
にあることは、誰もが承知するところではないか。黄鶴楼にはそういう魔力があると言う。
○日本のウィキペディアフリー百科事典には、張詠の項目は無い。中国の検索エンジン百度の百度百科が載せる張詠は、次の通り。
张咏
张咏(946—1015)字复之,自号乖崖,濮州鄄城(今属山东)人。太平兴国间进士。累擢枢密直学士,
真宗时官至礼部尚书,诗文俱佳。
【生平概况】
生于晋出帝开运三年,卒于宋真宗大中祥符八年,年七十岁。慷慨好大言,乐为奇节。太平兴国五年
(980)郡举进士,议以泳为首。有夙儒张覃者未第,咏与寇准致书郡将,荐覃为首。众称其能让。是岁,
咏登进士乙科,授大理评事,知崇阳县。累官枢密直学士。两知益州,恩威并用,蜀民畏而爱之。咏与
寇准最善,每面折准过,虽贵不改。准知陕,咏适自成都罢还,将别,准问曰:“何以教准?”咏曰:
“霍光传不可不读。”准归取读之,至不学无术,笑曰:“张公谓吾矣!”官至礼部尚书。乞斩丁谓、
王钦若,章三上,出知陈州。卒,谥忠定。咏著有文集十卷,《宋史本传》传于世。
張詠は、なかなかの人物だったらしい。詳しくは、以下を参照されたい。
http://baike.baidu.com/link?url=Eka_ItMP2HvbEA2eP9l97xkLETGGV3LxyI_rHE3B_W1sxWYiR7C0e_TRroWg6RZS6J9qhd82pfVjk_RTmuNyqY2lMJnwMXapqJN9QTPJ-4fVpU1zOmqmWt3VCGEZquxU