○中国、江蘇省蘇州の胥門前には、「伍子胥纪念园」が設置され、伍子胥像や伍子胥の『相土嘗水象天法地』の立派な石碑などが建っていた。また、中庭には、幾つかの伍子胥にまつわる詩作の碑が立ち並んでいた。
○前回、その中の一つ、張詠の「伍員廟」詩を案内した。今回は、それに引き続き、高啓の「弔伍子胥(謁伍相祠)」を案内したい。
【原文】
弔伍子胥(謁伍相祠)
高啓
地老天荒伯業空
曾於青史見遺功
鞭屍楚墓生前孝
抉目吳門死後忠
魂壓怒濤翻白浪
劍埋冤血起腥風
我來無限傷心事
盡在越山煙雨中
【書き下し文】
伍子胥を弔ふ(伍相祠に謁す)
高啓
地老天荒、伯業は空しかれども、
曾て青史に於いて遺功を見る。
楚の墓に屍を鞭つ、生前の孝、
吳の門に目を抉る、死後の忠。
魂壓怒濤、白浪を翻せば、
劍埋冤血、腥風の起つ。
我來無限、傷心の事、
盡く越山煙雨の中に在り。
【我が儘勝手な私訳】
長い年月を経て、伍子胥の生きた時代は遠い過去となってしまったが、
それでも私たちは司馬遷の「史記」で伍子胥の生きざまを知る。
伍子胥は、楚の平王の亡骸を鞭打って、父伍奢の仇を討ち、
呉の門に自分の眼を抉って懸け、呉が越に滅ぼされるのを見届けた。
それで、伍子胥の魂魄は怒涛の如く、荒れ狂って白波を立てて、
剣を賜っての死は伍子胥に恨みしか生ぜず、生臭い不穏な嵐を引き起こす。
結果、伍子胥には司馬遷の言うように、永遠の「怨毒」しか生ぜず、
それが越王勾践に乗り移って、呉王夫差は伍子胥に殺されたとするしかない。
○ウイキペディアフリー百科事典が案内する高啓は、次の通り。
高啓
高 啓(こう けい、1336年 - 1374年)は、中国明代初期の詩人。字は季廸(きてき)。号は青邱(せいきゅう)。平江路長洲県の出身。「呉中四傑」の一人。娘が一人いる。祖父を高本凝、父を高一元(字は順翁)といい、姉と高咨という兄がいて、兄弟のうちの末子である。
○中国の検索エンジン、百度百科が案内する高啓は、次の通り。
高启
高启(1336年-1374年),字季迪,号槎轩,长洲(今江苏苏州市)人。元末隐居吴淞青丘,自号青丘子。元末明初诗人,文学家。
明洪武初,以荐参修《元史》,授翰林院国史编修官,受命教授诸王。擢户部右侍郎,力辞不受。苏州知府魏观在张士诚宫址改修府治,获罪被诛。高启曾为之作《郡治上梁文》,有“龙蟠虎踞”四字,被疑为歌颂张士诚,连坐腰斩。
高启才华高逸,学问渊博,能文,尤精于诗,与刘基、宋濂并称“明初诗文三大家”,又与杨基、张羽、徐贲被誉为“吴中四杰”,当时论者把他们比作“初明四杰”。又与王行等号“北郭十友”。高启诗兼采众家之长,无偏执之病。但从汉魏一直摹拟到宋人,又死于盛年,未能熔铸创造出独立的风格。反映人民生活的诗质朴真切,富有生活气息。吊古或抒写怀抱之作寄托了较深的感慨,风格雄劲奔放。有诗集《高太史大全集》,文集《凫藻集》,词集《扣舷集》。
高启(元末明初诗人,文学家)_百度百科 (baidu.com)
○高啓は、蘇州の人である。いかに蘇州で伍子胥が愛されているかがよく判る作品である。