蕭繹:祀伍相廟 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○中国、江蘇省蘇州の胥門前には、「伍子胥纪念园」が設置され、伍子胥像や伍子胥の『相土嘗水象天法地』の立派な石碑などが建っていた。また、中庭には、幾つかの伍子胥にまつわる詩作の碑が立ち並んでいた。

○その中で、ブログ『張詠:伍員廟』、『高啓:弔伍子胥(謁伍相祠)』と続けている。したがって、今回は『蕭繹:祀伍相廟』となる。

  【原文】

     祀伍相廟

       蕭繹

    石城寧足拒

    金陣詎能追

    楚關開六塞

    吳兵入九圍

    山水猶縈帶

    城池失是非

    空餘壽宮在

    日暮舞靈衣

  【書き下し文】

     伍相廟に祀る

       蕭繹 

    石城は寧ろ拒むに足り、

    金陣は詎くんぞ能く追はんか。 

    楚の關、六塞を開き、

    吳の兵、九圍に入る。

    山水は猶ほ縈帶のごとく、

    城池は是非を失す。

    空しく餘す、壽宮の在りて、

    日暮に、靈衣の舞ふ。

  【我が儘勝手な私訳】

    石造りの立派な城は、もともと不必要なものであるし、

    堅固な軍隊など、どうして追い求める必要などあろうか。 

    伍子胥は、祖国楚国の幾つもの関所を打ち破り、

    吳の軍隊は、楚の都であった郢を取り囲んだ。

    楚の自然は、いまなお伍子胥にとって昔と全く同じであり、

    楚の都、郢で伍子胥が取った行動は常軌を逸するものであった。

    すでに亡くなっていた、父の仇である平王の墓を暴き、

    平王の亡骸を三百回も鞭打ったと言うのだから。

○張詠の「伍員廟」も凄かったが、高啓の「弔伍子胥(謁伍相祠)」も、凄まじい作品であった。それに加えて、今回の蕭繹「祀伍相廟」詩もまた、何とも素晴らしい作品である。張詠(946~1015)や高啓(1336~1374)が生きた時代に対して、蕭繹(508~555)の場合は、時代がたいへん古い。

○ただ、忘れてならないのは、伍子胥(?~紀元前484)が生きた時代が何とも古いことである。蕭繹でさえ、伍子胥の死後1000年と言うのだから。それでも伍子胥は歴史の中に生きている。それは全て、司馬遷の「史記」のお陰と言うしかない。

○司馬遷の「史記」には列伝が70個掲載されている。その中で、『伍子胥列伝』は六番目に記録されている。それ程、司馬遷は高く伍子胥を評価していたことが判る。ある意味、司馬遷は伍子胥の大ファンなのである。そのことは『伍子胥列伝』の最後、太子公曰を読むと、よく判る。

  怨毒之於人、甚矣哉。王者尚不能行之於臣下。況同列乎。

  向令伍子胥従奢倶死、何異螻蟻。棄小義雪大恥。名垂於後世。

  悲夫。方子胥窘於江上、道乞食。志豈嘗須臾忘郢邪。

  故隠忍就功名。非烈丈夫。孰能致此哉。

  白公如不自立為君者、其功謀亦不可勝道者哉。

○何とも凄まじい文章であることに、驚く。司馬遷がそれぞれの列伝の最後に、それぞれの列伝の講評をしているのが「太史公曰」なのであるが、『伍子胥列伝』の「太史公曰」の全文は百文字ちょうどで、この数字はもちろん意識的である。このわずか百文字の文章に彼は「感嘆・抑揚・使役・反語・対句・感嘆・反語・感嘆・反語・仮定・感嘆」と十一個もの句法を羅列してみせる。こんなでたらめで、むちゃくちゃな文章など、それこそ空前絶後に近い。

○もちろん、これが司馬遷の伍子胥に対する評価であることは間違いない。それ程、司馬遷は伍子胥を愛していた。そうでなくては、こういう文章は書けない。