○2022年2月2日、京都ぶらり旅で、建仁寺へお参りした。建仁寺の第十世住持は、円爾弁円と言う。その円爾弁円の遺偈を先日書いたばかりである。それは次のようなものであった。
【原文】
釋辯圓遺偈
利生方便
七十九年
欲知端的
佛祖不傳
【書き下し文】
利生し方便すること、
七十九年。
端的に知らんと欲す、
佛祖の傳はらざるを。
【我が儘勝手な私訳】
この世に生を受けて七十九年、
只管、衆生の救済、教導に励んで来た。
釈迦牟尼仏の教えがどういうものか、
ただ、それだけを知りたい一生であった。
○円爾弁円(1202~1280)は、七十九年の生涯だったと言うから、当時にしては、随分長生きである。なお、釋辯圓遺偈は次のブログに書いている。
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『釋辯圓遺偈』
○その円爾弁円よりも五十年ほど前に生きた僧が月輪大師俊芿(1166~1227)である。円爾弁円の眠る東福寺に隣接する泉涌寺の開山が俊芿である。その俊芿法師の辭世の頌は、次の通りである。
同八日子時。復染筆書辭世頌曰。
生來徧學
經律論敎
一時打拼
寂然無窖
嘉禄三年閏三月初八日
【書き下し文】
生來、徧く學び、
經律、論敎す。
一時、打拼するも、
寂然、無窖ならん。
【我が儘勝手な私訳】
生まれてこの方、ひたすら仏法を学び、
特に、經律について、研究してきた。
この世にあって、一時、奮闘努力はしたが、
これからひっそりと深い眠りに着くことである。
○俊芿法師の辭世の頌については、次のブログで書いた。
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『入宋傳法比丘俊芿自賛幷びに辭世頌』
入宋傳法比丘俊芿自賛幷びに辭世頌 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
●このように並べてみると、偈がどういうものであるか、判って面白い。同じように、建仁寺の第十一世住持であった蘭溪道隆禅師(1213~1278)の遺偈も残されている。
【原文】
蘭溪道隆遺偈
用翳睛術
三十餘年
打翻筋斗
地轉天旋
【書き下し文】
蘭溪道隆遺偈
翳睛術を用ゐて
三十餘年、
筋斗を打翻すれば、
地は轉たし、天は旋る。
【我が儘勝手な私訳】
蘭溪道隆遺偈
佛に導かれるまま、
日本へ来てから三十餘年、
仏道三昧に勤しんで来たつもりだが、
人の一生とは、おおよそ、こんなものか。
●建仁寺の第十世住持が円爾弁円であり、第十一世住持が蘭溪道隆である。蘭溪道隆が亡くなったのは弘安元年(1278年)7月24日だと言う。それに対して、円爾弁円が死んだのは弘安3年(1280年)10月11日だとする。つまり、円爾弁円は、当然、蘭溪道隆の死を目の当たりにしている。
●年代順に並べると、
・月輪大師俊芿示寂:::嘉禄3年(1227年)
・蘭溪道隆示寂:::弘安元年(1278年)
・円爾弁円示寂:::弘安3年(1280年)
となる。上記の遺偈も、そういうふうに読むと、また別の感慨が湧くのではないか。
◎孔子の「論語」泰伯篇に、曾子の次の言葉がある。
鳥之将死、其鳴也哀。 鳥の将に死せんとするや、其の鳴くや哀し。
人之将死、其言也善。 人の将に死せんとするや、其の言ふや善し。
遺偈と言うのは、まさにそういうものではないか。
◎なお、虎関師錬の「元亨釈書」巻六に、『宋國道隆』傳を載せるが、意外に簡素なものとなっている。その臨終に際しても、
弘安元年孟夏于福山。秋七月示微疾。
至二十四日、書偈辭衆而寂。
とあるのみで、何とも寂しい。
◎上記した『蘭溪道隆遺偈』は、中国、成都の大慈寺にあった「蘭溪道隆禅師年譜」に記されていたものである。以前、次のブログに書いている。
・テーマ「武侯祠と杜甫草堂:成都」:ブログ『蘭溪道隆遺偈』
蘭溪道隆禅師遺偈 | 古代文化研究所:第2室 (ameblo.jp)
◎おそらく、この時代が建仁寺が最も繁栄した時では無かったか。まだ仏教が生きていた時代の話である。そういう時代を生きたのが月輪大師俊芿であり、大覚禅師蘭溪道隆であり、聖一国師円爾弁円である。今から八百年ほど昔の話である。