「乙巳の変」論考(一)

 

一,「日本書紀」皇極四年(六四五)の条に,中大兄皇子が皇極天皇の面前で,蘇我入鹿を斬殺する事件が記されている。講学上,「乙巳の変」と呼ばれる事件である。

 この事件について,天皇から問いに対し,中大兄皇子は「鞍作(入鹿),天宗を尽し滅して,日位を傾けむとす。」と答えている。

 こうした「書紀」の記述に対しては,様々な議論がなされており,「変」の実相が必ずしも明らかになっているとは言い得ない現状がある。

 

二,事件発生年についての論争

(一)「書紀」の記す「皇極四年(六四五)」について,古田史学会報一〇〇号から一〇七号にかけての紙上で,多元史観論者の正木裕・斉藤里喜代・西村秀巳・水野孝夫氏等が,その信憑性についてそれぞれの視点から熱い論争を繰り広げている。それはその後においても,単発的ではあるが,服部静尚氏が一二九・一五一・一五二号で,また正木氏は一四〇号で,直近では古賀達也氏が一六九号でそれぞれの見解を述べている。

 

(二)論争の焦点

ア,焦点は何かと言えば,事件の発生年に関するものである。

①口火を切ったのは正木氏で,『「書紀」に記す大化改新(六四五~六四九)記事は,九州年号大化期(六九五~七〇三)から持ち込まれた。乙巳の変では記事中の「大極殿・衛門府・十二通門」等は「板蓋宮」にはなく「藤原宮」であり,六九五年以降の出来事となる』との見解を示した。

②これに対し,斉藤氏は『「乙巳の変」と「大化改新」は無関係。「書紀」は「乙巳の変」については,「大化」を用いず「皇極四年としている。また「三韓の調」についても,「百済」は六六三年に,高句麗は六六八年に滅亡しているので五〇年ずらすことには無理がある』として正木説を否定した。

③この斉藤見解について西村氏は『「書紀」の構造は「乙巳の変」をきっかけに「大化改新」を行ったのであるから,ワン・セットと考えても良い。「新羅・百済・高句麗」が同時に「調」と「表文」を送ってくることはない。「三韓の表文」は何らかの書き換えが行われている。藤原宮以前に「十二門」を持つ巨大な宮城は存在しない。「乙巳の変」が六四五年と六九五年に起こった場合を比較すると,王朝交代を考えても後者の方がはるかに大きい。』として,斉藤見解を批判した。

④また水野氏は『大化年号六九五~を認めるなら,「乙巳の変」の六九五以降も併せて認めるべき。三韓の使者がこの事件を目撃したなら本国への報告があったろう。だが朝鮮半島の史書にそうした記述はない。』とし,斉藤見解を批判した。

⑤これらを受けて再び斉藤氏は『入鹿を後ろ盾としていた古人大兄が伐たれた。この入鹿殺しと古人大兄殺しこそセット。五十年後にずらすとするなら,蝦夷が死んだ際に出てくる登場人物まですべて書き換えが必要となろう。年号について言えば,皇極四年までは「皇極四年」,その七月からが「大化元年」である。』と反論し,六四五年説を堅持した。

 

イ,その後,服部静尚氏は同会報一五一・一五二号で次のような見解を示した。

『前期難波宮の造営を考えると,班田収授は七世紀中葉に行われていなければならない。従って「廃評建郡の詔」は七世紀中葉。また,「乙巳の変」は六九五年とし鎌足は実は不比等であったとする見解があるが,続日本紀天平宝字元年(七五七)の藤原仲麻呂に関する記事から,それは否定される』。

としている。「六九五年以降説」の否定である。

 

ウ,また古賀達也氏は同会報一六九号で,「乙巳の変」についてではないが,「大化改新」について,従来の各説を次のように要約をしている。

(a)九州年号「大化」(六九五~七〇四)の時代に九州王朝が発した改新詔が「日本書紀」編纂により五十年遡って「大化」年号ごと孝徳紀に転用された。

(b)七世紀中頃の九州年号「常色年間」(六四七~六五一)頃に九州王朝により難波で出された詔であり,「日本書紀」編纂時に律令用語などで書き改められた。

(c)孝徳紀に見える大化改新詔などの一連の詔は,九州王朝により,九州年間に出された詔と,同「常色」年間頃に出された詔が混在している。

 古賀氏自身は,それまで(a)説を採っていたが,(c)説へと見解を変更した,とされている。

 

 「乙巳の変」の発生年については,「大化」年号を九州年号とし,六九五年以降とする「多元史観」ならではの問題であり,「一元史観」からは生じない。

 そして,前述の「多元史観論者」内で行われた論争をみるに,斎藤・服部両氏の主張のように,「乙巳の変」の発生時期は「書紀」記述のとおり「六四五年」である,という見解を支持する。ただし,「乙巳の変」と「大化改新」とを無関係とすることまでも同意するわけではない。また,(c)説を支持する点については同意できるものの,混在する内容の区分けについては更に検討を要するものと考える。

 

三,事件発生の要因

 これについて,「書紀」は次のように記す。

①皇極元年春正月の条「大臣の児,自ら国の政を執りて,威父より勝れり。」

②  同  是歳の条「蘇我大臣蝦夷,己が祖廟を葛城の高宮に建てて,八佾の儛をす。又,預め双墓を今来に造る。一つをば大陵と曰ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵と曰ふ。入鹿臣の墓とす。更に悉に上宮の乳部の民を聚めて,塋垗所に役使ふ。」

③是に,上宮大娘姫王,発憤りて歎きて曰はく,「蘇我臣,專国の政を壇にして,多に行無礼す。天に二つの日無く,国に二つの王無し。何に由りてか意の任に悉に封せる民を役ふ。」といふ。

④皇極二年十月の条「蘇我大臣蝦夷,,病に縁りて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて,大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて,物部大臣と曰ふ。・・・中略・・・蘇我臣入鹿,独り謀りて,上宮の王等を廢てて,古人大兄を立てて天皇とせむとす。」

⑤  同 十一月の条「蘇我臣入鹿,小徳巨勢徳大臣・大仁土師娑婆連を遣りて,山背大兄王時を斑鳩に掩はしむ。」

として,蘇我氏の横暴な専横ぶりを記す。

その上で,「変」の現場において,天皇・入鹿・中大兄皇子三者の遣り取りを次のように記す。

⑥まず,傷ついた入鹿が,皇極天皇に向かい「当に嗣位に居すべきは,天子なり。臣罪を知らず。乞ふ,垂審察へ。」と問うた。

⑦これに対し,天皇は「知らず。」と答えた上で,中大兄皇子に向かい,「作る所,何事有りつるや」と問うた。

⑧中大兄皇子の返答は「鞍作,天宗を尽し滅して,日位を傾けむとす。豈天孫を以て鞍作に代へむや。」であった。

 

 こうした,「書紀」の記述から,蘇我入鹿は専横的に振る舞い,天皇を蔑にし,かつ天皇位をねらった不忠の人物と捉えられ,中大兄皇子が討伐したものと考えられてきた。

 少なくとも,「書紀」を読む限りにおいて,そうした見解に立つことは批難されるべきものではないであろう。

 だが,「変」の要因について,「書紀」に記された内容以外にも,東アジアの国際情勢が背景にあったのではないか,という見解がかねてから論じられてきた。これについて,以下で検討を加えたい。

 

四,「変」発生の時代背景

(一)「乙巳の変」発生の理由について,これまでにも多くの論者によって様々論じられてきている。そうした議論について,大和岩雄氏がその著書「天武天皇出生の謎」(昭和六二年二月二五日発行,六興出版)において,多くの論者を引きながら整理し,検討を加えている(特に,同書五八頁以下)。そこでは,まず次のように言う。

 「大化改新」の新政権が,従来の反新羅・反唐の政策を改め,親新羅・親唐の外交政策をとったことについては,石母田正・井上光貞・門脇禎二・金鉉球氏らが詳述している。また,田村圓澄・鈴木靖民・三池賢一・中井真孝氏らも「大化改新」を境に,日本の仏教・学芸・制度・文化が新羅化していったことを述べている。

 その上で,大和氏自身は,「乙巳の変のクーデター計画には,蘇我本宗家の親百済政策によって混乱している外交・内政を改新しようとする,大海人(漢)皇子らのグループと,古人大兄皇子を皇位につけようとする蘇我本宗家を倒して,皇位継承を自派に有利にしようとする,葛城皇子のグループが,協力して行ったクーデターであろう」としている。続けて,「このような反新羅・反唐の蘇我蝦夷・入鹿らを討って生まれた改新政権なのだから,この新政権の外交方針が,親新羅・親唐なのは当然である」と言う。(五八~五九頁)。

 また,次のようにも続ける。

 『僧旻舒明四年(六三二),高向玄理は舒明一二年(六四〇)に帰国しているが,玄理は中国に三二年もいた。井上光貞氏は,玄理を歓迎する立場に舒明朝はなかったから,玄理の帰国を「唐朝の意思」と想定している。玄理は新羅使とともに新羅から帰国しているので,金鉉球氏は「唐・新羅の意図によるもの」とみている』(六〇頁)。

 

(二)背景に外交政策の違い

ア,「変」の要因を,新羅・唐への外交政策の違いと見ることについては,各論者の指摘のとおりと考える。だが,この時最大の問題となるのが,「白村江の戦い」を惹き起こすこととなった外交方針である。この戦いは,反新羅・反唐の立場から「百済救済」のために行われたものである。国家の存亡にもかかわるような一大事案について,「中大兄皇子ら近畿天皇家」は「親新羅・親唐」」から「反新羅・反唐」へと急展開したというのであろうか。親百済政策をとっていた蘇我蝦夷・入鹿に反して彼らを討ったはずの「中大兄皇子」が急転直下「親百済」に方針転換を図ったというのだろうか。だがそれにもかかわらず,自らは百済救済のための派兵を行った形跡がない。どういうことなのだろうか。

 ここに,従来の議論では説明できない隘路があると考えざるを得ないのである。

 

イ,多元史観から見た外交政策の違い

 「近畿天皇家」が親唐の立場を明確にしたのが何時なのか。それは,拙論:「推古朝の遣唐使」論で論じたところであるが,六二二年(「書紀」は推古十六年と記すが,多利思北孤の登迦年の六二二年と解した)裴世清と蘇因高が推古天皇の近畿天皇家を訪れた時である。

 この時,「鴻臚寺の掌客裴世清」によって奏上された「唐の太宗からの国書」に対し,推古天皇は臣下としての立場での「国書」を返している。一方,この前段で,「九州王朝」は唐からの「天子の称号の自棄要請」を拒否している。

 この姿勢は,次の唐からの使者「高表仁」に対する対応にも如実に表れている。これについても。拙論:「高表仁と倭国」で論述したとおりである。即ち,「九州王朝の太子は高表仁と争い,結果高表仁は天子に謁ことなく帰らざるを得なかった。帰路の途中近畿天皇家に立ち寄ったが,そこではもてなしをうけた。」(舒明四年八月及び同五年正月の条)。

 更に,「九州王朝の反唐・親百済」と「近畿天皇家の親新羅・親唐」の基本的な立場の違いは,一層深まっていった。これについても,拙論:「分裂した唐への使節団考」(一)(二)で詳述したとおりである。(「九州王朝」からの使者「韓智興」等と「近畿天皇家」からの使者「伊吉連博徳」等の唐への対応は真逆であったため,両方の使節団を幽閉した。)

 その違いが,「白村江の戦い」に対する両王朝の姿勢の違いとなって明確に現れた。即ち,唐に破れた「百済」の遺臣からの要請を受けて,「九州王朝」は「百済救援」を決意し,「新羅・唐」との決戦を決意した。一方,中大兄皇子率いる「近畿天皇家」は,「斉明天皇崩御」を理由として参戦を断った。「親唐」の立場を貫いたのである。

 

ウ,「一元史観」と「多元史観」による外交姿勢の捉え方の相違

 六四五年当時の外交方針の捉え方について,「親新羅・親唐・反百済」と「「反新羅・反唐・親百済」の対立が「乙巳の変」の大きな要因とみることについては,各論者の指摘のとおりと考える。しかし,「一元史観」論者においては,その対立は「近畿天皇家」内部の対立として捉えざるを得ない。そのため,「乙巳の変」を起こした「中大兄皇子」について,どちらの立場に立っていたのか,極めて不明瞭とならざるを得ないのである。

 しかし,「多元史観」の立場からは,六二二年を境に,明らかに「近畿天皇家」が「親新羅・親唐」の立場に,「九州王朝」は「反唐・親百済」で一貫していたのである。

 

では,何故六四五年に「変」は起きたのか。その当時,蘇我入鹿はどのような立場に立っていたのか,などについては,本稿(二)で論ずることとする。