「大化改新」論(五―二)

――「原詔」の検証――

 

一、残された課題

これまで「改新の詔」が発せられた根本的な理由を「唐の侵攻」と想定し、そのために必要な政策を 『①国内軍事力の増強と②防衛施設整備』 との観点から述べてきた。その上で、基本的に「改新の詔」は「原詔」であったと考えられるとした。また「詔」の発出者は、「乙巳の変」を境に、「親百済・反唐」へと舵を切った「九州王朝」であったとも述べてきた。ただし、未検討の問題も残されている。それが次の問題である。

①「詔」二項主文の「畿内国司・郡司」及び副文ⅰ・ⅱの扱い

②同四項のⅴ「仕丁や采女」の問題

③新システムに基づく中央と地方を結ぶ行政組織の解明

④「大化の改新」という呼称について

 

二、「詔」二項主文の冒頭

 「書紀」は「初めて京師を脩め」と記す。ここに記す「京」の意味について、『このように「京」は「みやこ」と読むが、原義としては天皇が居住する場所である』とされる(吉村武彦等編著「畿内と近国」三五頁)。

また「師」とは役人とか兵士・軍人の意味があることと、それ以下に「国司・郡司云々」の整備状況が記されていることから、「都」としての整備方針が示されたものと考える。

 

三、「畿内国司・郡司」問題

(一)二項主文の冒頭に続いて「畿内国司・郡司・・・を置き」の文言が続く。これについて、従来から二つの大きな問題が論じられている。

①「畿内国司」の読み方

 ②「郡司」を巡っての「郡・評論争」

 

(二)「畿内国司」の読み方の前提として、「畿内」の検証

ア、令制後の「畿内」については、天皇の在所を中心として「山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国」がそれとされている。

 これに対し、「書紀」は副文において「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を畿内国とす」としている。通常「四至畿内」と呼ばれている。明らかに令制「五畿内」とは異なっている。

この「四至畿内」の中央に当たるのが「難波」なのか「飛鳥」なのか、はたまた「藤原京」なのか、未だ定説がない。仮に藤原京とすれば、「改新の詔」のこの部分は後代の挿入ということにもなろう。

 

イ、服部静尚氏は、「畿内を定めたのは九州王朝か」の論考において、四地点の直線距離が難波から概ね等しい距離にある地を求めるならば、それは「難波」であろうとする見解を述べている。

 これに対し、佐々木高弘氏は、『「畿内の四至」と各都城ネットワークから見た古代の領域認知:点から線(面)への表示』(待兼山論叢・日本学篇)なる論考で次のように述べる。

まず直線距離ではなく、通常人々が通行する道路ネットワークに重点を置いて四至を捉えようとした。その結果、「孝子峠・雄ノ山峠越えが紀伊國に出る最短距離で、またそれならばなぜ南限をこの地に選ばなかったのか」との疑問を呈した。その上で幾つかの検討をしたのち、最終的に「四至の領域表示は、飛鳥・藤原京ネットワークのもの。ただし、このネットワークは大化改新をはさんで二回あり、そのどちらのものかは不明」とされた。

これだけではどちらとも断定し得ない、難しい問題である。しかしこの問題は、この「畿内」を定めた「詔」との関係で理解されるべきものと考える。

 

ウ、「詔」の出された六四六年当時は「前期難波宮」造営にも着手されておらず、孝徳の遷居した「難波長柄豊碕宮」と言えど、未だ仮の宮にすぎなかったのではないか。そうした状況下で「九州王朝」は、そこに「防衛拠点」としての施設整備を目論み、事前に防衛のための外形整備を行なおうとしたのではないかと思われる。

この防衛施設整備を、孝徳朝自らの決定とするため、「九州王朝」の臣下でありながら「乙巳の変」で「中大兄」に協力した「蘇我倉山田石川麻呂」を孝徳朝に送り込んだと考えられることについては、既に述べてきたところである。

同時にまた、旧来の豪族支配領域とは無関係に、新たな直轄エリアを設けることの必要性が生じたものと考えられる。

 このように考えると、「国司・郡司・・・」以下に続く京師の制の説明や坊令・坊長の職掌が古令とほぼ同じだ⦅岩波版:「日本書紀」(四)においても「以下二行は、京師の制の説明と坊令・坊長の職掌。」とした上で、更に「この文章は養老古令、置坊長条とほぼ同じ」としている(二五七頁)』⦆としても、それは潤色ではなく、直轄エリアの安全・安定性の必要性から生じた新制度と見做して良いと考える。

この六四六年当時行われた制度を、後の時代に律令として受け継ぎ全国的に拡大整備しようとしたもの、それが古令などであったのではないか。従来考えられてきた潤色とは全くの逆転現象をそこに見るのである。

 従って、「難波」を中心に据えた防衛拠点整備の観点からは、「四至」によって中心に置かれたのは、服部氏の言うように「難波」であったと考えて良いものと思われる。

 

(三)『「畿内国の司」か「畿内・国司」か』

ア、「畿内国」について、「山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国」がそれとされていることと関連し、それを基準に考える見解が多数を占めている。しかし、これについても、「四至」の領域内を直轄的に強権を以って整備しようとする観点から、一つの「畿内国」とするものであって、それまでの豪族支配エリアを無視して、一つの直轄エリアとしたものと考えてよいものと思われる。

 従来から、「畿内国」の捉え方や、「国司」に関する規定が見えないことを理由に「畿内・国司」と読まずに「畿内国の司」と読むと解する見解が多くみられる(例えば、岩波版「日本書紀」(四)二五七頁)。しかしこれだと、次に続く「郡司」などとに一貫性がなく、極めて不自然な解釈を強いることとなっている。

「畿内を置く」との表現は、京師を中心として四方に囲まれたエリアを観念的に「(四至)畿内」と設定し、それを具体に地理上に落とし込むことを言ったものと考える。六四六年「詔」の発出時点においては、エリア内を一括して直接統治するために置かれたものに過ぎず、後の「畿内国」とは一線を画すべきものと考える。

 

(四、)「国司」について

 「東国国司への詔」については、大化元年八月・二年三月・同年九月の三回が記されている。岩波版:「日本書紀」(四)では補注二五―七で詳細な検討を行っている。そこでは

 「この東国国司は半年で任務を果たして帰京しており、・・・中略・・・むしろ、大化前代に、一定地域の諸国造の上に臨時に派遣されたミコトモチに類するものととるのが自然であろう(四〇八頁)」としている。

 確かに、今回の国司についてみれば、岩波版補注にいうように「半年で任務を果たして帰京」しており、地方に「臨時的に派遣されたもの」との見解には同意できる。

このことは更に「当該国司が中央の役人」であったことを意味し、「地方に常住するものではない」ことを意味する。これ即ち、中央の役人が「造籍や校田」の命令を以って地方へ赴くための役職が「国司」であったということである。それは同時に「畿内」という中央直轄エリアに「国司」が派遣されるということはあり得ないことを意味する。それ故、少なくとも「畿内国司」という読みは成り立たないと考える。

では「畿内国の司」という読みは成り立つのだろうか。その場合、「畿内国に置かれる司」とはどのような役職を想定するのだろうか。

 そもそも「改新の詔」やその前後の「書紀」の記述には、中央内部の組織に関する記事は見当たらない。記されているのは、あくまでも地方統治のための地方に対する新たな行政組織に関するものである。このことから言えることは、「畿内国の司」という役職をこの文言から想定することはできないのではないか。従って、「畿内国の司」と読むこともまた無理とすべきであろう。

 つまるところ、「詔」でいう「畿内国司郡司」は、「畿内・国司・郡司」と読むべきものと考える。

 

(五)「郡司」について

 最も困難な問題である。一旦「郡評論争」は棚上げにして、「詔」が「郡司」を置こうとした狙いについて考えてみたい。

ア、前述した「国司」が中央の命を持って地方に赴いた時、地方側での受け手は誰になるのであろうか。

これまでの検討では、地方は、清廉潔白で有能と認められた一部の国造を含めた「大領・少領」によって統括されることとなったと解してきた。一方、五十戸単位で一つの「里」を形成し、四十里が大郡、四里~三十里が中郡、三里を小郡とせよと規定している。だが、「里」の場合と異なり、その郡ごとに「長」たる者を置くことは予定されていない。ただ「大領・中領・少領」の名称のまま統括・統治が認められているにすぎない。

なお、この場合でも、大郡が四十里とされていることから見て、一人の「郡司」の支配できる最大管轄領域は四十里までと考えられる。

 

 イ、このように考えると、従来「国造」が支配していた領域に多くの「大領・少領」が存在することとなり、地方の勢力を弱める効果をもたらす一方で、「国司」が中央の意向を伝えるには相手が多すぎるという不都合も生じよう。それを解消するため、一定のエリア内における「大領・少領」の中から、それらをまとめる地位・人物の存在が必要となったのではないか。それこそが「総領」ではないかと考える。

「総領」はあくまでも地元側から見た「大領」等の代表である。この者に対し、中央の官職としての地位を併任させようとの狙いから与えられたのが「郡司」ではなかったか。

中央から命を持って派遣されてきた「国司」に対する受け手側の責任者は「郡司」にほかならなかったと考えるものである。このことは、「郡司」として所管するエリアの統治といった本来業務の他、中央の求める「造籍」や「「徴税」業務などの責任遂行が大きな任務ともなったものと言えよう。

 

ウ、これらの「総領・大領・少領」等はいずれも、そのほとんどが国造を中心とした在地の人々である。中央が計画する「官道整備」やそれに伴う「田地の再整備」などの基本政策を実施するためのノウハウは全く有しない。これを行うためには、中央から専門の教育を受けた人物が別途派遣されたものと考えられる。ただ、それらの専門職の人々は、事業の進捗に伴い、次々と事業個所を移転していったものと考えられる。

 

四「郡・評論争」と「原詔」

 これまで、「郡・評論争」問題を棚上げして「郡司」の実態について検討を加えてきたが、「原詔」との関係については、次稿において論ずることとする。