SIS日記 -18ページ目

SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

いのちを巡る緊密な言葉(詞) 〔絵本のさんぽみち〕 

※絵「生まれたてのたまご」
 

「大人の絵本」というジャンルが、私の住む市の図書館にある。どこの図書館にもあるかどうかは知らないが、以前から私はこの一角の書物を気にしていた。ショーン・タンによる想像上の生きものが跋扈する魅惑的な絵本など、お薦めしたいものもある。

さて、「いのちの時間」と題した絵本。ブライアン・メロニー・作、ロバート・イングペン・絵、藤井あけみ・訳、新教出版社・刊の絵本。その1ページ目を開く。言葉(詞)と絵とが、くっきりとしていて分かちがたく結びついている。

「いのちには、はじまりとおわりがあって その間を“生きている”という。」


「その間を“生きている”という。」という言葉を見ながら、たまごの絵を見る。たまごは温かくて、もうすぐにでも中から鳥の雛が殻を叩いて出て来そうな気がする。

2ページ目。
「いま、こうしている間も たくさんのいのちが どこかで生まれ どこかでおわりをむかえている。」

貝殻がぐるりと円のようにして描かれている。もう風化しかけている貝殻に目が行く。

3ページ目。
「そして、いつもそのまん中に、生きている時間が満ちている。」
※絵「熱帯魚」

「いつもそのまん中に……生きている時間が満ちている」という言葉がくっきりとしている。それは、一つの個体を表す言葉でなく、私たちのこの世界のことを表している。

4ページ目。
「これは、花、人、鳥、魚、木、動物 すべてのいのちにとって、まぎれもない真実。」「どんなに小さな虫にとっても。」
※絵「アリ」
3ページ目の「生きている時間が満ちている」を受けて、書かれている。「どんな小さな虫にとっても」と継がれ、アリに目が行く。

この後、いのちにとって困難が生じる、「生老病死」のありさまが書かれ、とくに「死」についてのページとなる。

「死はとても悲しいこと でも、それは生まれる前から 花、人、鳥、魚、木、動物 すべてのいのちに約束されたこと。」「どんな小さな虫にとっても。」
※絵「アリ」

ここは、3ページ、4ページの「すべてのいのちにとって」「いつもそのまん中に……生きている時間が満ちている」のネガ(暗転)になっている。「死」は、すべてのいのちに約束されている。そして、「どんな小さな虫にとっても」と継がれ、アリに目が行く。ここで描かれているアリは、骸(むくろ)だ。

最終ページは、次のようにして閉じられる。
「長くても短くても いのちの時間にかわりはない。はじまりがあっておわりがあり その間には“生きている時間”がみちている。」最終ページの挿絵は、メガネや指輪などの遺品、魚の剥製など。“生きている時間”が存在していた痕跡を表す物が描かれている。

無駄の無い、実に緊密な言葉で構成された「絵本」だ。ずっしり、重い「絵本」だ。

斉藤史・冥き淵からの眼 ② 〔文学のさんぽみち〕
 

 麻痺の夫と目の見えぬ老母を左右に置きわが老年の秋に入りゆく
 
斉藤史の晩年は、上記の歌の如くであった。在宅介護が世の中の流れであった時代、夫と母と二人を一人で介護していた。
 
 我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生(あ)れしことに黙す
 
己を生んだのは、今ここに横たわる鳥骸の如きものなのか。だとするなら、己は生まれて来たことに言葉を失う。
 
  老(おい)不気味 わがははそはが人間(ひと)以下のえたいの知れぬものとなりゆく
 
〈老い〉は不気味なものだ。我が母、その人が人間ならざる得体の知れないものとなっていく。
 
 声も姿も母ならぬものとなりはてし老の無明の底辺(そこべ)知らずも
 
声も姿も知っている母ではなくなっていく。〈老い〉がもたらす人間煩悩の底無しの淵までいくのか。
 
 老い果てて盲母が語るは鬼語ならむわれの視えざるものに向ひて
 
眼が見えなくなった母が語っているのは鬼の世界の言葉なるか。もはや我の視えない虚空に向かって話しているが如くにだ。
 
「鳥骸」「得体の知れぬ」「無明の底辺」「鬼語」などの言葉にたじろぐ。しかし、たじろぎはしながらも、もし母がそのようなことになったら己はどう言葉を紡ぎ出すことができるのか……。
斉藤史・冥き淵からの眼 ① 〔文学のさんぽみち〕
 
 
斉藤史の歌を3回ほどに分けて取りあげたい。気になって仕方がない。けれども、なかなか手につかない。斉藤史の歌は、おいそれと踏み込めない気がするし、生半可な構えではピシャリと扉を閉められるような気もする。
 
前回、岡本かの子の桜の歌を取りあげたばかり。そこで、次のような斉藤史による桜の歌を読むと、ドギマギしてしまう。
 
 血の底までたわたわ重き八重桜まぎれやうなきその花の鬱
 
斉藤史は、たわむほどに重く垂れる八重桜に、その花の「鬱」を見るという。満を持して咲き誇る桜花は、「血の底まで」たわたわ重い、という。「紛れようなき」ときっぱり言い切る。

 はららぎて眼に光りつつ掌に乗らぬ風の乱れのままの風花
 
ばらばらになって眼に飛び込んで来る花びら。次から次へと、舞っている。だが、手を差し出すも、ただの一枚も己の掌に乗らない。そして、風の乱れのまま去って行く。こんな淋しい情景を、身動きもせず、切り取る。斉藤史の人生の定点が、ここにあるような気がする。
 
 しをしをと濡れゐる木立の傍(かたへ)過ぎこぼれしものはかなしみに似る
 
雨でしおれて濡れる木立を通り過ぎる時、ほたりほたり零(こぼ)れ落ちるものは「かなしみに似る」と詠う。
 
たわむ八重桜に何を視るか。掌に乗らぬ風花に何を感じるか。木立から滴る雨滴に何を念(おも)うか。斉藤史の評伝を紐解けば、それらの起点となる出来事や、それらが刻んだ精神(こころ)の在処について何か言うことができるかもしれない。ただ、少なくとも私はその任ではない。
 
斉藤史は、明治42年に生まれ、平成14年に没した。母と夫の二人を同時に自宅で介護し、看取った。晩年は、自らも含めて〈老い〉の坩堝の中で暮らし、さまざまな〈老い〉の風景も詠った。次回、斉藤史が視た〈老い〉を読んでみる。