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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

 「時」への構え方 〔文学のさんぽみち〕



  各停とふリアリズムあり鈍行といふシニシズムあり鈍行でゆく
                       (馬場あき子)


「各停」も「鈍行」も電車の運行形態は同じだ。「各停」とは「各駅逐次停車運行」の略だ。それを、作者・馬場あき子は「リアリズム」とする。どの駅も飛ばさずに運行する。だから、乗客の手持ちの時間に適合するかしないか、単純で現実的な表示だということだ。それに対して、「鈍行」を「シニシズム」と捉えた。すると、「のたのたして遅い」「逐一停まって間延びする」という気構えが前景に浮かび上がってくる。よって、馬場は「鈍行で行く」と末尾を結ぶ。我は、それでいく。そのようにして生きていく、と。

同一の運行形態を、「リアリズム・realism」「シニシズム・ cynicism」と分けて捉えた馬場。そこに、「時」への構え方が滲み出て来る。痛快な歌である。


  桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり
                       (岡本かの子)


岡本太郎の母、恋多き女と称されたかの子。「時」への気概ある構え方を詠った馬場あき子の歌と並べて、この歌を読んでみたい。

この歌の幹になっているのは、「咲くからに」の「からに」だ。桜の花がいのち一杯に咲いているからには、我も生命をかけて眺めるという、渾身の歌詠みになっている。

その年の桜だけでないのだろう。毎年咲く桜を、その時節を予期して構え、精一杯眺めるのだろう。そのような眺め方をする、それはかの子の生き方だ。凄まじさを感じる。

かくして、そこにかの子の「時」への構え方が現れて来る。この時、かの子はまだ〈老い〉と言われる年代ではなかったかもしれないが、この構えが貫かれたであろうことは十分に想像できる。


 

わかき日の疑問 〔文学のさんぽみち〕

(わか)き日の疑問の奥に在りしもの解らねばいまだ老いに到らず
                       (橋本喜典)


橋本喜典のこの歌は、よくわかる。というか、こころに沁みて来る。少年や青年だった時、いろんな疑問を持った。その疑問について、あれこれ探り、考えた。青臭く、生意気な面があったかもしれない。だが、橋本の語には、「疑問の奥に在りしもの」とある。たんなるノウハウの疑問でなく、かたまりとして横たわっている疑問あるいは問題だということが想像できる。人生を賭けて解明したい、それでなければ「いまだ老いに到らず」。

すると、ここで言われる〈老い〉は、身体のそれよりも精神のそれだ。精神の〈老い〉は、最後まで問い続けることを倦むのでなければ訪れないのではなかろうか。

そう考えていると、前田夕暮の次のような歌に出会い、さらに思いに沈む。

 
魂よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて
                                                      (前田夕暮)


これは、自らによる自らの「魂・たましい」への問いかけだ。二人の己(自分)がいる。若き日の夢を捨て去った現実の己と、その夢から立ち去り難く漂う魂の己と。こんな風にして己を見詰めることは、なまなかなことではない。ここにいる我は、どうなのかと思ってしまう。

〈老い〉とは、何だろうか。果たして……。


 

「個」「孤」「ひとり」の絡み合い 〔文学のさんぽみち〕



  かならずしも個は孤ならねど結局はひとりだといふ死もわれに棲む
                       (馬場あき子)


長きにわたって第一線で歌を詠んできた馬場あき子の歌は、さすがだ。私などには、いくら力んでも登り切れない堅牢な高みがある。

「個は孤ならねど結局はひとり」などという処がそれで、いきなりつむじ風に巻かれて高所の頂に連れて行かれる。オズの魔法使いかメリー・ポピンズの話であればスジが見えるが、いきなりで面食らう。それが、「ひとりだという死」と、死とつながる処を見て、少し頂の霧が晴れてくる。「個=ひとり」は、決して切り離されて存在しているのではないが、「死」においてはつまるところ独りなのであり、そういう「死」も我が身のうちにある。

「結局、死んでいくときはひとりさ」と、紋切り型でない。「個」「孤」「ひとり」と、一人を表す意味合いの語が3つ込められていて、それぞれがさまざまな人生の断面を立ち上らせ、絡み合っている。「かならずしも個は孤であらねど」という具体場面は確かにある。人の温もりが感じられてホッとした場面など、想起される。けれども、人の世のつながりある「個」は、「結局はひとり」だということに収斂していくことにも思い至る時がある。まだ経験したことがない死であるのに、「われに棲む」のを何故かふと生々しく感じる時がある。こうして、「個」「孤」「ひとり」と配置された3つの語の奥に、われらの人生を浮かべている小舟と、すぐ下に底の見えない深い海が横たわっていることを感じて、ハッとする。