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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

何を争いすぎ来し年か 〔文学のさんぽみち〕


 

 姑の体ふく終へし手はあたたかし何を争ひすぎ来し年か
                       (遠藤礼子)


〈老い〉は、自らの内のみならず、人と人との〔関係性〕のなかにも現れると前回に書いた。それまで〈老い〉を相手のなかに見ることがなかった人を、この段になって介護・介助する場面に〈老い〉に出会うのだ。その〈老い〉は、こちら側の領分ではないものの、協同して向き合うものではある。

遠藤礼子が、いま向き合っているのは老いた姑だ。舅は何年か前に逝き、遠藤礼子はやはり見送っている。横たわっている(と思われる)姑の体を拭き終えた、その手があたたかい。台所の拭き掃除をしたのではない。人の体、姑の体だ。起伏がある。寄る年波のたるみもある。気になる部位も手を入れる。他の世話もあるから、今できることをと手を尽くす。ようやく拭き終えた手があたたかい。その時、己(おのれ)はかつて姑と何を言い争い、諍いをしてきたのかと、ふと思う。

すぎ来し日、己は姑に対して引かず、主張し、言い争って来た。姑も、頑として引かなかった。いま、〈老い〉のなかに身を横たえるその人の体の隅々まで触れた時、己の手があたたかかった。それは、自らの手に返ってきたあたたかさでもあるのだ。遠藤が詠っているのは、そうしたしみじみとした感慨だ。

こんなにも、触れしことなし 〔文学のさんぽみち〕


  背後より母を支えて こんなにも母のからだに触れしことなし
                       (大島史洋)


〈老い〉は、己(おのれ)一人のなかに現れてくるのみならず、人と人との〔関係性〕のなかに現れてくる。そのなかでも最たるものが、介護・介助場面だろう。

大島史洋が詠っているのは、実母を介助する場面かと思う。こんなにも母の体に触れたことはなかった。その「こんなにも」に、さまざまな思いが去来する。

「たわむれに母を背負いて……」という石川啄木の有名な歌があるが、大島史洋の場合は「たわむれ」でなく介助の必要が生じた時のことかと思える。その時になってというか、その時に至ってあらためて「背後より母を支えて」だったと思う。「こんなにも」しっかりと、「こんなにも」長く、「こんなにも」傍で、……と大島が感じた胸のなかのつぶやきが伝わって来る。


  目やに拭きふぐりを拭きて九十や 二人し居ればこの世天国
                       (岡部由希子)


長く連れ添った夫婦。夫が身動きできなくなっているのだろう。目脂から陰嚢(ふぐり)から、日課のようにしてからだを拭く。もう九十の齢にならんとする。たとえからだが不自由になろうとも、互いに生きている。二人で居ればこの世は天国だと言える幸せ。

  もてあそぶごとくにながき母の食事気付けば母は居眠りいます
                       (武永義一)


武永義一が詠っている場面は、大島と同じく息子が実母を介助する場面かと思われる。母が食事する。箸を使い、主菜や副菜をつまみ、口に入れているのだが、間延びし、長いのだ。杳として終わらない。まるで、「もてあそぶごとくに」。あるいは、幼子のごとくに。気がついて母を見ると、居眠りしている。ここで、息子はどんな感覚を持つか。武永義一は、「母は居眠りいます」と結んでいる。「います」は、「いらっしゃる・おられる」の意だ。「在(あ)る」の尊敬語だ。そっとしておこう。今は、母の眠りの時間なのだから。

 

もの言はぬ木草と居れば 〔文学のさんぽみち〕



 もの言はぬ木草と居ればこころ足り老い痴れし身を忘れし如き
                       (窪田空穂)


窪田空穂が、こんな歌を詠っている。ものを言わない木や草を目の前にして居れば、老いて呆けた我を忘れてこころ足りる時を過ごすことができる、という。

木や草は、偉ぶることもなく、卑下もせず、ただあるがままに生きている。その木や草を見ている、ただ一緒に居る。その時の自分は、透明なほどの〈素〉であるだろう。人の世の〈関係性〉から導き出され、比べたり、落ち込んだりせず、自分は自分だと感じることができる。〈老い〉も忘れている。


  命一つ身にとどまりて天地(あめつち)のひろくさびしき中にし息す
                       (窪田空穂)


〈老い〉を忘れた己(おのれ・自分)でいると、天地が大きく広がる中で、ただの一つの生きものとして息をする己がそのまま感じられる。「命一つ身にとどまりて」とは、何と気高く美しき言葉か。