武将と姫の墓 | 上杉景勝の廟所 - 上杉家廟所!謙信の跡を継ぐ熱き初代米沢藩主! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、上杉景勝の廟所の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
上杉景勝 上杉家廟所 山形県米沢市御廟1丁目5−30

 

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上杉景勝の廟所は上杉家廟所にあります。
発見難易度★☆☆☆☆

くるまr駐車場があります。


謙信の跡を継ぎ、豊臣政権下では五大老に栄進

上杉景勝(うえすぎかげかつ)は豊臣五大老の一人で、米沢藩初代藩主です。
母は上杉謙信の姉の仙洞院。
叔父に当たる謙信の養子となり、謙信のもとで活躍します。
謙信の死後、同じく謙信の養子であった北条氏康の子・上杉景虎との家督争いを制し、上杉家当主となりました。
その際、長年の仇敵であった武田家の当主・勝頼と和睦しています。

天正10年(1582年)、柴田勝家率いる織田軍の侵攻 により窮地に立たされますが、本能寺の変によって織田信長が死去。
景勝は難を脱します。

信長死後は羽柴(豊臣)秀吉に近づき栄進。
小早川隆景の死後、隆景に代わり豊臣五大老の一人となりました。
慶長3年(1598年)、大幅加増の上、会津へ転封となり、 120万石の太守となりました。

秀吉の死後は、徳川家康と対立します。
家康は上杉征伐を決め、諸大名を率いて出陣しますが、その隙をついて上方で石田三成が挙兵。
家康軍は小山評定の後、西へとトンボを返し、関ケ原の戦いへと繋がっていきます。
窮地を脱した景勝は攻守一転、直江兼続を総大将に、東軍方の最上領へと侵攻。最上義光伊達政宗連合軍と東北の関ケ原ともいうべき合戦を繰り広げました。

戦後、取り潰しは免れたものの、米沢へと転封となり、石高は30万石となってしまいました。

 

上杉家廟所入り口。

 

 

廟所前には堀がありました。

 

 

上杉家墓所資料館。発掘品などが展示されています。

 

 

上杉家廟所への参道。

 

 

上杉家廟所正面。

 

 

上杉景勝の廟所。

 

 

アップ。

 

 

斜めから。

 

 

ずらりと並ぶ歴代藩主の廟所。

 

 

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