「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、
伊達政宗の霊屋の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅
は少しお休みです。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
伊達政宗 | 瑞鳳殿 | 宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2 |
拝観:570円。
発見難易度★☆☆☆☆
観光地としても有名なのでナビで行かれます。
駐車場があります。
奥州の独眼竜
伊達政宗は、永禄10年(1567年)、伊達輝宗と最上義守の娘・義姫との間に産まれました。
伊達家の不穏な動きを未然に防ぐ目的もあり、政宗は若年で父・輝宗から家督を継ぎます。
輝宗の死後は精力的に版図の拡大を図り、天正17年(1589年)に会津の蘆名を滅ぼし奥州の覇者となりました。
政宗は幼少期に疱瘡(天然痘)で右目を失っており、奥州の独眼竜と呼ばれました。
仙台藩祖の伊達政宗
せっかく掴み取った領地でしたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置きにより会津領は没収されてしまいます。
また、翌天正19年(1591年)の大崎葛西一揆の後にさらに領地は削られてしまい、領地も米沢から岩出山へ転封となりました。
秀吉が亡くなると、徳川家康に近づき、慶長4年(1599年)長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝の婚姻を結び、関ヶ原では東軍に属し親戚筋の最上とともに上杉と戦っています。
関ヶ原の後に仙台に巨大な城を築き、幕末まで続く仙台藩が誕生しました。
戦後に再建された瑞鳳殿
政宗が亡くなると、二代藩主・伊達忠宗は政宗の遺言通り経ヶ峯の地に霊屋を造営し瑞鳳殿と命名しました。
霊屋は昭和まで残り、昭和6年(1931年)に国宝に指定されましたが、残念ながら昭和20年(1945年)の空襲によって灰燼に帰してしまいました。
戦後になって旧来の姿で再建され今日に至っています。
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