武将の墓 | 武田信満の墓 - 天目山栖雲寺!武田勝頼も目指した武田家の信仰厚き寺 | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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武田信満の墓の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅
は少しお休みです。

人物名 墓のある施設 住所
武田信満 栖雲寺 山梨県甲州市大和町木賊122
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武田信満の墓は栖雲寺にあります。
発見難易度★☆☆☆☆
お墓は甲州市の幟が立っているので分かると思います。

庭園拝観:300円。

くるまr天目山駐車場に停められます。

武田家ゆかりの寺・栖雲寺
栖雲寺は業海禅師によって開かれました。
業海禅師は、文保2年(1318年)に元に渡り、元の天目山で修行。修業後、帰国し武田家の招きにより貞和4年(1348年)、栖雲寺を開きます。
以降、武田家の信仰厚く、境内には武田信満のお墓があります。

また、銅鐘は中世期に造られたもので、甲斐の五鐘の一つに数えられています。


甲斐武田家10代当主・武田信満
武田信満は、甲斐武田家の10代当主です。
応永20年(1413年)に家督を継ぎます。
応永23年(1416年)10月、鎌倉公方と上杉氏憲(禅秀)の間に争いが起こり、氏憲の舅であった信満は氏憲に加担しますが、翌応永24年(1417年)1月に上杉氏憲は敗れて自害。
武田信満も2月6日、天目山にて自刃し果てました。


武田勝頼、天目山を目指すも、たどり着けず
時は流れ、織田信長の甲州征伐(1582年)の際には武田勝頼はこの天目山栖雲寺を目指しますが、途中、農民の一揆、天目山の山伏と小山田の兵の来襲があり、たどり着くことは出来ませんでした。
武田家にとって天目山は鬼門なんですかね。


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栖雲寺への道。


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本堂。


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屋根には武田菱が。


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甲斐の五鐘の一つに数えられる銅鐘。


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石庭。


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お墓は囲いの中にあります。


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家臣達の墓とともに祀られる武田信満夫妻の墓(中央)。


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武田信満夫妻の墓。武田信満の墓は高さ1.03mだそうです。


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