城めぐり | 大阪城 その8 - 大阪城のミステリーなスポットを紹介! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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お城めぐりの旅、大阪城の紹介その8、ミステリーなスポットの紹介です。
 

城名(別名) 住所 関連する人物
大阪城(錦城、金城、大坂城) 大阪府大阪市中央区大阪城1-1 豊臣秀吉、豊臣秀頼、淀君、徳川秀忠

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日本100名城スタンプ No.54
登城年月:2009年02月
登城順:36/100
大阪城は大阪のシンボルとして庶民に愛されています。
豊臣秀吉が築き、後に徳川秀忠によって再築されました。
くるまr近隣に有料駐車場があります。

100名城スタンプは天守閣内1Fにあります。
天守閣は博物館になっています。
開館:9:00~17:00
休館日:12月28日~1月1日


※江戸時代まで大阪は大坂と表記されていましたが、下記は現在の表記の大阪とします。

織田信長が戦略的に高く評価した大阪城の前身・石山本願寺
石山本願寺は織田信長を相手に10年にも渡って戦いを繰り広げました。
その拠点となっていたのが石山御坊と呼ばれた大阪の本願寺でした。
信長は長く苦しめられた石山御坊の立地を高く評価。
安土に代わる西国制覇の拠点として大阪に居城を築く予定であったと言います。
しかし、本能寺の変によってその夢は叶わぬものとなってしまいました。

豊臣秀吉、大阪城を築城
天正11年(1583年)、羽柴(豊臣)秀吉は大阪城築城を開始します。
それと共に大名屋敷、城下町も整備し、総延長2kmにおよぶ惣構えの大城郭を完成させます。
秀吉は大阪城を居城とし全国制覇を成し遂げていきました。

なお、関白となった秀吉は天正15年(1587年)に京の聚楽第に移り住んでいます。

大坂の陣による大阪城の破却
秀吉亡き後、大阪城は秀吉の遺児・秀頼とその母・淀君 が居城としていましたが、慶長19年(1614年)、徳川対豊臣の合戦・大坂冬の陣が勃発します。
巨城・大阪城を前に20万の徳川勢も攻めあぐね、以後一か月の攻城戦が繰り広げられました。

後に和睦が成立しますが、徳川家康は豊臣方と取り決めた講和の条件を無視し、惣構えをめぐる外堀を破壊し、二の丸と三の丸の堀も埋め、同時に櫓や門も打ち壊してしまいました。
それにより、大坂城は内堀と本丸を残すのみの状態となってしまい、翌年の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣にて大坂城は落城。 秀頼、淀君は自刃し、豊臣家は滅亡してしまいました。

徳川秀忠、大阪城を再築城
豊臣家滅亡の後、城は松平忠明に与えられますが、元和5年(1619年)、忠明は転封となり、大阪は幕府の直轄地となります。
徳川秀忠は元和6年(1620年)に大阪城の再築城を開始。
全国の大名を動員し、9年の歳月をかけて城を完成させました。
なので、今日残る大阪城は徳川秀忠の手によるものです。

天守閣の再建
徳川の権威を見せつけた荘厳な天守閣は寛文5年(1665年)、落雷が原因で焼失。以降、江戸時代を通し再建はされませんでした。

現在の天守閣は、昭和6年(1931年)、鉄筋コンクリートによって再建されました。
徳川秀忠の造った天守台の上に豊臣時代の天守閣が再建されています。

 

 

大阪城のミステリースポット
大阪城には、誰がどういう目的で作ったのか分からない謎のスポットがあります。
これは、ガイドブックなどにはあまり載っておらず、詳しい場所が分かりにくいです。
また、城内には一切それについての案内板がありません。
そんな謎のスポットを写真で詳しく紹介します。
各ミステリースポットの場所は下図。

 

 

人面石
青屋門から南下、東内堀を右手に歩くと、すぐに下図の石垣が見えてきます。
その石垣の上部に人面石があります。
人の顔が彫ってあるわけではありませんが(時代とともに風化したのかもしれませんが)、江戸時代のころより人面石と呼ばれ、気味悪るがられていたそうです。
人が石垣から覗いているようにも見えますよね。
望遠鏡もポピュラーな時代じゃないですから、ぼやっと人の顔に見えたんでしょうね。

 

 

人面石のある石垣。

 

 

アップ。

 

 

さらにアップ。たしかに人が石垣から覗いているようにも見えますねびっくり

 

 

空堀の抜け穴
東内堀(水堀)が南に折れ、桜門がある空堀になります。
ちょうど水堀が空堀に代わったあたりに奇妙な石積が見られます。
内部は空洞になっているそうで、ちょうど側溝にフタをしたような状態になっています。
これ、本丸からの抜け穴という伝説が残っています。

 

 

抜け穴と言われている石積。中は空洞になっているそう。

 

 

六番櫓の抜け穴
六番櫓の向かって左手の石垣の石がぽっかり一つだけ抜けています。
下図赤丸。
この穴、城からの抜け穴っていう言い伝えがあります。
近年調査をしたところ、石垣の中は崩れて埋まってしまってるそうです。
果たして城に続いていたのでしょうか。

 

 

六番櫓の抜け穴。

 

 

抜け穴アップ。

 

 

大手高麗門の接ぎ木
大手高麗門を城内側から見ると、不思議な継ぎ木の跡が見られます。
これ、専門的に言うと、「蟻継ぎ」「殺ぎ継ぎ」という技法が使われています。
一見すると、どの方向からもはめ込めないような構造となっているため、長年謎とされてきました。
近年、X線撮影によってようやく解明されました。
斜め下から斜め上にスライドさせながらはめ込むようです。
江戸の職人技、恐るべしですねびっくり

 

 

大手高麗門桝形から。

 

 

大手高麗門の継ぎ木、向かって左側(正面)の継ぎ方が「殺ぎ継ぎ」

 

 

別角度から。右側の継ぎ方が「蟻継ぎ」

 

 

分かりやすく線で示してみました。一見すると継ぎ方が分からないですよね。

 

 

次回、その9 大阪城の石垣の刻印へ続く。

 

 

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