「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」 、戦乱の旅です。
武将の足跡、古戦場をめぐります。
「元寇(蒙古)来襲! 元と高麗の悪鬼羅刹の蛮行の前に犠牲となった
武将の足跡、古戦場をめぐります。
「元寇(蒙古)来襲! 元と高麗の悪鬼羅刹の蛮行の前に犠牲となった
対馬・壱岐の英霊たちの悲しき物語」
の史跡めぐりの旅を紹介していきます。
鎌倉中期、元寇の船団が対馬・壱岐に来襲します。
島に上陸した元寇の悪鬼どもは、老若男女子供にいたるまで、殺掠して回りました。
運よく捕虜となった女達は手に穴を開け、船壁に並べて吊るされ、人間の盾にされました。
また、ある者は異国に連れ去られ番族の王に奴隷として献上されました。
元寇が去った後の島民の数は一説には二桁に過ぎなかったとか。
…そんな悲しい対馬・壱岐の元寇の史跡を紹介していきます。
※このページはブログ更新のたびに随時追記してきますので、よろしくお願いします。
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![]() 日本侵攻までの経緯、文永の役・弘安の役の対馬・壱岐への侵攻路、日時、および島の凄惨な状況について詳しくはこの記事をご覧ください。 |
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![]() 千俵蒔山は対馬北部にあり、 いにしえより朝鮮半島から対馬に向う際の船の目印になっていた。 元寇の船団もおそらく千俵蒔山を目印に対馬に来襲したと思われる。 なお、千俵蒔山には古来、防人と狼煙台が配備されていた。 |
![]() 文永11年(1274年)10月5日、元寇は対馬の小茂田浜(こもだはま)に上陸。 敵は、元軍:2万5千、高麗軍:8千、船団は900艘。 対する対馬勢は、対馬守護代・宗助国(そうすけくに)ら80余騎。 1,000人ほどの元軍が上陸し、戦闘が始まる。 |
![]() 元寇と果敢に戦い、散っていった島の英雄・宗助国とその家臣の英霊を祀る。 |
![]() 元寇と果敢に戦った対馬守護代・宗助国の首塚。 宗助国の墓は首塚の他に、胴塚、手足塚、刀塚と対馬島内に点在する。 |
![]() 元寇と果敢に戦った対馬守護代・宗助国の墓・胴塚。 宗助国の墓は胴塚の他に、首塚、手足塚、刀塚と対馬島内に点在する。 |
![]() 元寇と果敢に戦った対馬守護代・宗助国の墓・手足塚。 宗助国の墓は手足塚の他に、首塚、胴塚、刀塚と対馬島内に点在する。 |
![]() 元寇と果敢に戦った対馬守護代・宗助国の墓・太刀塚。 宗助国の墓は太刀塚の他に、首塚、胴塚、手足塚と対馬島内に点在する。 |
![]() 元寇は加志の浜にも上陸。 宗一族の越前五郎盛賢が果敢に立ち向かうものの、衆寡敵せず全滅。 |
![]() 元寇は三根浦にも上陸。 宗一族の甲斐六郎は少人数で立ち向かうも全滅。 |
![]() 文永11年(1274年)10月14日、対馬を蹂躙し支配下に置いた元寇は、壱岐の北側の浦海(うろーみ/現・勝本港)と天ヶ原に上陸。 その数、元軍:2万5千、高麗軍:8千、船団は900艘。 元寇は上陸すると、出会った島民を情け容赦なく殺害。 |
![]() 文永11年(1274年)10月14日、対馬を蹂躙し支配下に置いた元寇は、壱岐の北側の浦海(うろーみ/現・勝本港)と天ヶ原に上陸。 その数、元軍:2万5千、高麗軍:8千、船団は900艘。 天ヶ原の島民たちは惨殺され、遺体は至る所に散らばっていた。 運よく生き残った島民たちは遺骸をまとめて葬り、塚を建てた。 |
![]() 文永11年(1274年)10月14日、壱岐に上陸した元寇は、壱岐の守護代・平景隆の樋詰城(ひのつめじょう)を目指して進軍。 平景隆は城を打って出て、高麗橋(こーれーばし)にて元寇軍と激突する。 |
![]() 文永11年(1274年)10月14日、高麗橋(こーれーばし)にて勝利した元寇は、壱岐の守護代・平景隆の樋詰城(ひのつめじょう)を目指してさらに進軍。 平景隆軍は庄ノ三郎ヶ城下唐人原(とうじんばる)にて元寇軍と再激突。 |
![]() 文永11年(1274年)10月14日、唐人原(とうじんばる)にて勝利した元寇は、壱岐の守護代・平景隆の樋詰城(ひのつめじょう)を目指してさらに進軍。 樋詰城へ撤退した景隆軍と城に迫る元寇は、樋詰城下で激突する。 古戦場跡には千人塚もあり、この場所にて多くの将兵、島民が散っていったことを物語る。 |
![]() 文永11年(1274年)10月14日、撤退して平景隆が籠った樋詰城には、元寇の大軍が押し寄せる。 景隆以下、城兵たちは必死に抵抗したものの、多勢に無勢。 翌10月15日、遂に城は落ち、景隆以下全滅して果てる。 城跡には切岸や土塁が残る。 |
![]() 元寇の大軍の前に城とともに玉砕した平景隆の墓は、玉砕した地・樋詰城跡にある。 現在、城跡には新城(しんじょう)神社が建つ。 |
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![]() 弘安4年(1281年)5月21日、 平穏を取り戻した対馬に再び悪鬼・元寇が来襲。 前回と異なり、島の反対側の世界村大明浦に上陸。 迎え撃つは対馬の守護代・宗盛明。 ※世界村大明浦=佐賀と推測 |
![]() 弘安4年(1281年)5月26日、 元寇は壱岐の勝本港と瀬戸浦から上陸。 迎えるは、壱岐の守護代・少弐資時。 |
![]() 元寇との海戦が行われた瀬戸浦を見下ろす少弐公園には狼煙台が復元されている。 この地には、飛鳥~平安時代の間、防人が置かれ、狼煙台も備えてあった。 |
![]() 瀬戸浦にて引き上げられた碇石。 形状から中世の日本船の碇と判明。 瀬戸浦では元寇との海戦が行われたため、その際のものなのかもしれない。 |
![]() 瀬戸浦にて引き上げられた碇石。 瀬戸浦では元寇との海戦が行われたため、その際のものなのかもしれない。 |
![]() 壱岐の守護代・少弐資時の銅像。 19歳の若さで元寇に立ち向かう。 島の英雄は銅像となり称えられる。 |
![]() 壱岐の守護代・少弐資時は旗下百騎余りを従え居城・船匿城から打って出るも、 元寇の大軍を前に衆寡敵せず、 城へと撤退。 船匿城にて籠城戦を繰り広げるが、大軍の前に力及ばず、資時以下、全滅して果てる。 |
![]() 壱岐の守護代・少弐資時は元寇の大軍と船匿城にて籠城戦を繰り広げるが、大軍の前に力及ばずに全滅。 少弐資時の墓は城外の激戦地跡にあり。 |
![]() 神社は小弐軍と元寇との激戦地跡にあり。 祭神は亀山天皇、後宇多天皇の他、壱岐のために戦った小弐資時とその諸将。 社殿内には元寇の碇石もあり。 |
![]() 元寇(蒙古)によって無残に殺された島民たちを葬った塚。 多くの死体を埋めたことから「千人塚」と呼ばれる。 |
![]() 島民は再来した元寇(蒙古)によって惨殺された。 命からがら殺戮から逃れた島民は、村を抜け、山に入り込んで、洞穴に身を潜めた。 |
![]() 元寇(蒙古)によって無残に殺された島民たちを葬った塚。 多くの死体を埋めたことから「千人塚」と呼ばれる。 |
![]() 島民は再来した元寇(蒙古)によって惨殺された。 命からがら殺戮から逃れた島民は、村を抜け、山に入り込んで、洞穴に身を潜めた。 |
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