城めぐり | 樋詰城 - 平景隆、元寇の大軍の前に一歩も引かず城を枕に討ち死に! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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文永の役の際、壱岐守護代・平景隆が籠城し玉砕した樋詰城の紹介です。
元寇(蒙古)来襲!元と高麗の悪鬼羅刹の蛮行の前に犠牲となった 対馬・壱岐の英霊たちの悲しき物語ともリンクしていますのでよろしくお願いします。

※なお、対馬・壱岐に訪れたのは2016年です。
写真に写る風景や情報など、少し違っている事があるかもしれません。

 

城名(別名) 住所 関連する人物
樋詰城 長崎県壱岐市勝本町新城東触 平景隆、元寇

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樋詰城は現在、新城神社となっています。
くるまr駐車は出来ます。

 

壱岐の守護代・平景隆、唐人原にて元寇に大敗。樋詰城に引く

文永11年(1274年)10月14日、元寇は壱岐の北側の勝本天ヶ原に上陸しました。
その数、元軍:2万5千、高麗軍:8千、船団は900艘。
元寇は上陸すると、出会った島民を情け容赦なく殺害しながら南下。
壱岐の守護代・平景隆の樋詰城(ひのつめじょう)を目指しました。

※元寇の侵攻路、島での惨状はこちら。

 

壱岐の守護代・平景隆は城を討って出て、庄ノ三郎ヶ城下唐人原(とうじんばる)にて元寇軍と激突します。
「八幡大菩薩愚童訓」によると、合戦は、まず矢での応酬となり、それにより景隆軍の二人が負傷したそうです。
その後、果敢に立ち向かうものの、大軍を前に衆寡敵せず大敗。
景隆軍は樋詰城へ撤退しました。

 

平景隆、籠城戦の末、樋詰城にて自害

撤退して平景隆が籠った樋詰城には、元寇の大軍が押し寄せました。
景隆以下、城兵たちは必死に抵抗しますが、多勢に無勢。
翌10月15日、遂に城は落ち、景隆以下全滅して果てました。

 

 

樋詰城全景。

 

 

別角度から。

 

 

樋詰城に建立された新城神社。祭神は平景隆です。

 

 

神社前面の土塁らしき遺構。

 

 

神社社殿周辺は一段高くなってます。

 

 

曲輪らしき削平地。

 

 

切岸。

 

 

平景隆自刃の碑。

 

 

平景隆碑もありました。

 

 

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