城めぐり | 船匿城 - 少弐資時、元寇の大軍の前に果敢に立ち向い城を枕に討ち死に! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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弘安の役の際、壱岐守護代・少弐資時が籠城し玉砕した船匿城の紹介です。
元寇(蒙古)来襲!元と高麗の悪鬼羅刹の蛮行の前に犠牲となった 対馬・壱岐の英霊たちの悲しき物語ともリンクしていますのでよろしくお願いします。

※なお、対馬・壱岐に訪れたのは2016年です。
写真に写る風景や情報など、少し違っている事があるかもしれません。

 

城名(別名) 住所 関連する人物
船匿城 長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触 少弐資時、元寇

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船匿城には現在、将軍地蔵堂があります。
くるまr駐車場はありません。
港に少し停めさせていただき、歩きました。

 

壱岐の守護代・少弐資時、大軍に果敢に立ち向かう

少弐資時(しょうにすけとき)は壱岐の守護代で、鎌倉幕府の鎮西奉行・少弐経資(しょうにつねすけ)の子です。
資時はこの当時まだ19歳でした。

弘安4年(1281年)5月26日、 元寇は壱岐の勝本港瀬戸浦から来襲します。
資時は旗下百騎余りを従え居城・船匿城から打って出ます。
元寇の大軍と果敢に戦いますが衆寡敵せず、 城へと撤退。
籠城戦を繰り広げました。
しかし、大軍の前に力及ばず、資時以下、全滅して果てました。

 

※元寇の侵攻路、島での惨状はこちら。

 

 

城への道。民家の脇を登っていく感じです。

 

 

城最上部(本丸か?)にある将軍地蔵堂。

 

 

地蔵堂内。なん中に鎮座するのが将軍地蔵です。

 

 

船匿城居館跡の碑。

 

 

船匿城から元寇との海戦があった瀬戸浦を見る。

 

 

昔ながらの地形でしょうか。山頂部は切り立った崖になってます。

 

 

瀬戸浦からみた船匿城。

 

 

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