武将の墓 | 織田信忠の石廟 - 瑞龍寺!父信長とともに富山に眠っていた? | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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織田信忠の石廟の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅
は少しお休みです。
 

人物名 墓のある施設 住所
織田信忠 瑞龍寺 富山県高岡市関本町35

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織田信忠の石廟は瑞龍寺にあります。
拝観:500円。
発見難易度★★★☆☆
墓は本堂に向かって左手方面にあります。

くるまr駐車場があります。


信長に認められ、わずか19歳で家督を譲渡される
織田信忠は織田信長の子です。
母は吉乃。
幼名は奇妙丸。
父・信長とともに各地を転戦し、天正4年(1576年)、信忠が19歳の時に早くも信長から家督を譲られています。
信長はその際、居城・岐阜城をも信忠に委ね、自身は早々に安土築城を開始しました。

電光石火の甲州征伐
信忠は総大将として織田軍を率い、戦果を挙げていきます。
中でも天正10年(1582年)の甲州武田征伐の活躍は目覚ましく、総大将として織田の大軍を率い、わずか1ヶ月あまりで武田家を殲滅していました。
そのため、後発の信長は何の憂いもなく甲州入りを果たす事が出来、帰路は 物見遊山の旅 を楽しんでいます。

惜しまれる二条城での最期
天正10年(1582年)6月2日未明、明智光秀が本能寺を襲います
信忠はその報を受け、信長救援に向かいますが、その途中、京都所司代・村井貞勝父子と出会い、本能寺が既に落ちた事を知ります。
以下、信長公記より。

「信長公記」

織田信忠は本能寺のことを聞き、信長の助けに向かおうとするも、村井貞勝父子三人が駆けつけて、すでに本能寺は落ちましたと言う。
織田信忠は村井貞勝の勧めで二条城(御所)に籠る。
即座に評定をしたがまちまちで意見がまとまらない。
退去を勧める者もあったが、信忠は、このような謀叛では逃げうせることは出来まい。
雑兵の手に掛かり死ぬのは後世の不名誉、無念である。ここにて腹を切るべし。と神妙な覚悟を見せる。
敵は近衛前久の御殿の屋根に上がり、二条城(御所)を見下ろす位置から弓と鉄砲で攻撃してきた。
手負い、死者が多く出、戦う者はわずかになった。
敵は御所に突入し建物に火を放った。
信忠は、腹を切ったら、縁の板を引きはがし、遺体を床下へ入れ遺骸をかくすべし。と言い、介錯は鎌田新介に命じた。
一門、家人·郎等らが枕を並べて討ち死にした。
御殿は信忠の間近まで焼け、信忠は腹を切り、鎌田新介が介錯。
鎌田新介は言われた通り信忠の遺骸を隠した。


歴史にもしもは禁物ですが、もしこの際に信忠が二条城に籠城せずに、京を脱出することが出来たなら、後々の歴史は大きく変わっていたでしょうね。
信忠はすでに織田家の家督を継いでおり、信長というカリスマがいなくなったとしても織田家が分裂する事はなかったでしょう。
当然、羽柴秀吉も増長するこは無かったはずです。
徳川家康の伊賀越えのように信忠にもなんとか落ち延びて欲しかったです。

叶わなかった松姫との婚姻
永禄10年(1567年)、信忠が11歳の時、武田信玄と信長は信忠と信玄四女の松姫を結婚させることで同盟強化を図りました。
しかし、約束はしたものの、織田家への輿入れは中々進まず、次第に両者の関係は悪化してしまいます。
元亀3年(1572年)に同盟は決裂し、信忠と松姫の婚姻は幻となってしまいました。

以降も、信忠は正室を迎えることはありませんでした。
もしかしたら、ひそかに松姫を想っていたのかもしてませんね。
松姫は信忠討ち死にの報を聞くと、武田家と共に信忠の霊も弔ったといいます。

加賀藩初代藩主・前田利長の菩提寺・瑞龍寺
瑞龍寺は加賀藩初代藩主・前田利長の菩提寺で、2代藩主・前田利常が建立しました。
平成9年(1997年)に山門、仏殿、法堂が国宝に指定され、その他、総門、禅堂、大庫裏、大茶堂、回廊三棟は重要文化財に指定されています。

境内の一角に信忠の遺骸は眠るはてなマーク
案内板によると、前田利長は本能寺の変後、自領に織田信長・信忠親子の分骨を迎えその霊を慰めたと伝わっているそうです。
本能寺の変後、信長・信忠の遺骸は見つかっておらず、明智光秀が天下を握れなかった一因ともなっていますが、分骨があるって事は当時実は遺骨があったんでしょうかはてなマーク
実に興味深い記述です。

織田信忠の石廟は前田利常が瑞龍寺を建立した際に造られました。
石廟はその他、織田信長、前田利家、前田利長、織田信長側室・正覚院の5基が並んでいます。

 

 

総門。

 

 

山門。

 

 

豪壮な山門の造り。

 

 

山門の仁王像。

 

 

禅堂。

 

 

大庫裏。

 

 

仏殿。

 

 

法堂。

 

 

右から前田利長、前田利家、織田信長、織田信長側室・正覚院、織田信忠の石廟。


 

織田信忠の石廟。


 

石廟の中に納められた宝篋印塔。



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