「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、
山中鹿介の首塚の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅
は少しお休みです。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
山中鹿介 | 静観寺の門前 | 広島県福山市鞆町後地 |
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山中鹿介の墓は静観寺の門前にあります。
拝観:無料。
発見難易度★★★☆☆
駐車場はありません。
拝観:無料。
発見難易度★★★☆☆
駐車場はありません。
尼子家再興のために生涯をかけるも毛利のだまし討ちにあい命を落とす
山中鹿介(やまなかしかのすけ。鹿之介・鹿之助と記すこともあり)は、尼子家再興のために僧籍にあった尼子勝久を還俗させて主君と仰ぎ、毛利との戦いを繰り広げました。
織田信長の参加に入った後は中国地方を転戦し、羽柴秀吉の毛利征伐が決まると、その先鋒として上月城に入りました。
しかし、信長勢が他勢力との戦いのために一時中国地方から兵を引いたため、上月城は孤立してしまい、尼子勝久は自害して果てました。
鹿介は尼子家再興の志を捨てず、主君とともに自害はせずに降伏という道を選びます。
しかし、毛利輝元の元へ送られる途中、だまし討ちに合い、夢を果たせないまま生涯を閉じます。
足利義昭のもとへと送られた鹿介の首
だまし討ちにあった鹿介の首は、毛利輝元へと送られ、その後、鞆の浦の足利義昭のもとへと届けられました。
(足利義昭は当時、信長に追放され毛利の庇護のもと鞆の浦にいました)
義昭がこの地で首実験をした後、首は埋葬されました。
山中鹿介の首塚。
案内板。
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