城めぐり | 小幡豊後守 屋敷跡 - 病気おして武田勝頼に謁見した義の武将の屋敷! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」
お城めぐりの旅、小幡豊後守の屋敷跡の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅
ともリンクしていますので、よろしくお願いします。

城名(別名) 住所 関連する人物
小幡豊後守(昌盛)屋敷跡 山梨県甲府市大手 小幡豊後守(昌盛)、武田勝頼、小幡虎盛、武田信虎、武田信玄、土屋惣蔵、小幡景憲
誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。
小幡豊後守敷跡は躑躅ヶ崎城下にあります。
くるまr躑躅ヶ崎城(武田神社)に駐車場があります。
そこからは徒歩で散策してください。。

小幡家は、遠江国の出身で武田信玄の父・信虎の代より武田家に仕えました。
小幡豊後守(昌盛)は父・虎盛の死去により家督を継ぎ、信玄の旗本を務め、武田二十四将の一人に数えられています。

病をおし勝頼に謁見した忠義の臣・小幡豊後守
新府城を焼き捨て岩殿城を目指す 武田勝頼一行は躑躅ヶ崎城 に立ち寄り一条信龍の屋敷 で休憩をした後、さらに先を急ぎます。
一行が善光寺に差し掛かった時、小幡豊後守は最後の別れに現れました。
「甲陽軍鑑」に小幡豊後守の忠臣ぶりが記されていますので、以下要約。

小幡豊後守は善光寺前にて土屋惣蔵の取次により武田勝頼に謁見。
小幡豊後守は、巳の年(天正9年)11月より病となり、積聚(腹)が膨れてしまうも、病をおして籠輿に乗り、この世の最後の暇乞いを言上しに罷り越す。
勝頼は涙を流し、このように時期到来の折、その方が病気の身ではどうにもならない。と言葉をかける。
豊後守は籠輿に乗ったまま二町ほど勝頼と同行する。
豊後守は言う。領民の逆心も考えられるので、今夜は柏尾(勝沼)にお泊り下さい。柏尾はまず安全でございましょう。
勝頼はそれを聞き、急ぎ柏尾へと向かった。
豊後守は勝頼一行を見送ると黒駒(東八代郡)へと退散した。


武田諸将が勝頼を裏切る中、このような忠臣もいたんですね。
豊後守のような人材がまだたくさんいたら、武田家はもう少し奮戦していたかもしれません。
ちなみに、この豊後守の子の景憲は後に「甲陽軍鑑」の編纂に携わっています。



shiro_obata02
忠臣・小幡豊後守さんの顔。案内板より。


shiro_obata04
小幡豊後守屋敷跡。


shiro_obata05
今は中学校になっています。


shiro_obata01
案内板。


shiro_obata03
標識。武田二十四将の屋敷跡がこうして案内されています。


お城めぐりTOPへ戻る

アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちら まで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。

ライン宣伝07 ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い武将のスタンプ、かわいいたぬきサムライのスタンプなどなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。

ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。まとめサイトとかもダメです!neverなんて論外です!
この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!ズルしちゃだめですよ。
© 2010-2019 siro-sengoku-bushou.