昨日の続き。
子どもを変えようとするのは、親が追い求めてる理想の子ども像に押し込めようとしてるから。
それってすなわち、
「今のお前じゃダメだ!」
って子どもに言ってるようなもの。
子どもからしたら、
「いやいや、そんなこと言うてんと、今の僕を(私を)認めてよ」
って話なので、子どもは反発します。
このことを
「反抗期」
って言います。
反抗期って子どもに属するものじゃないのよ。
反抗期を経験する子どもと、経験しない子どもがいる。
その違いは何かと言えば、
「親が理想の子ども像を見てる(=目の前の子どもを見てない)」
っていうのと、
「子どもが反発を選択する」
っていうのが合わさると、子どもは反抗期に突入する。
親が目の前の子どもを見てる場合は、反抗はしない。
親が理想の子ども像を追いかけてても、子どもが「服従」を選択すれば、反抗はしない。
この場合は、かなり高い確率で、後々、もっとややこしい問題が起こるから、要注意。
子どもが求めていることは、いつの時代も、
「お父さん、お母さん、僕を(私を)見て!」
です。
自分を見てくれて、ありのままの自分を認めてもらうこと。
言い換えれば、
「ここが僕の(私の)居場所だ」
って思いたい。
でも、親が「理想の子ども像」を追い求めていると、子どもは
「今の自分じゃ、ここに居ちゃいけないんだ」
って思っちゃう。
理想の子ども像と同じになれれば、親は認めてくれるから、ここに居てもいい。
理想の子ども像に至らなければ、親は認めてくれないから、ここに居てはいけないんじゃないか、って思う。
最初は、褒められそうとがんばるんよ。
それで理想の子ども像に到達できなければ、今度は叱られようとする。
叱られようとしても、子どもの気持ちに気付かないなら、今度は親に直接攻撃を仕掛けてくる。
それでもダメなら、親が本気で嫌がること(自傷行為、犯罪、引きこもり、子どもが不幸になるなど・・・)をする。
それでもダメなら、子どもはもう全てを諦める。
親が理想の子ども像を追い求めていると、何年もかけてこのステップを進めていっちゃう。
時が経てば経つほど、手がつけられなくなっていく。
親がやることは、
「勇気を出して、何も変わらない、今のままの子どもを直視して、認めること」
です。
否定をせず、
諦めもせず、
今の子どもに、誇りと自信を持つ。
「これがうちの子どもだ(`・ω・´)ドヤッ」
です。
はっきり言って、親ばかです。
でも、子どもはそれを求めてる。
でも、
「勇気を出して、何も変わらない、今のままの子どもを直視して、認めること」
ってやろうとすると、親は、
「ある抵抗感」
を抱くことが多い。
それは何かと言えば、
「承認欲求」
です。
世間体や社会からの評価ってやつやね。
つまり、抵抗感を感じる親は、
「今のままの子どもだと、人様の前に出すと恥ずかしい」
とか、
「こんなんじゃ、社会の中で生きていけない」
みたいに思ったりしてるわけ。
子どもがゲーム三昧だなんて知られたら、
「あんなダメな子を育ててる親の顔が見てみたい、とか思われそう」
みたいに思ってたりするんよ。
「どんな子育てしてんねん」
って思われるのが怖いから、子どもに、
「ちゃんとさせようとする」
ねんな。
つまり、この親にとっては、
世間 > 子ども
っていう優先順位になってる。
子どもじゃなくて、世間を見てる。
子どもじゃなくて、他人を見てる。
自分の子どもじゃなくて、他所の子どもを見てる。
だから、子どもは、
「コラッ!僕(私)のことを見なさいよ!!」
ってことを伝えようとして、
暴言吐いたり、
暴力振るったり、
家に帰ってこなかったり、
不登校になったり、
引きこもりになったりするのよ。
アドラー心理学では、承認欲求を否定してるんよな。
だから、
「子どもが親の関心を引こうとする行動」
も否定しちゃいがち。
でも、子どもが親の関心を引こうと様々な問題行動を起こすということは、
「そうでもしないと、親がこっちを向いてくれないから」
ってことなんよ。
ほんとは、純粋な関心を持って、
優しい眼差しで、
子どもを信頼する強い気持ちを持って、
自分と相対してほしい。
でも、親の心が弱かったり、
親が承認欲求が強かったり、
親が些末なこと(世間体とか)に振り回されていたりすると、
子どもはあの手この手を使って、親の関心を引こうとする。
その過程で、子どもは「誤った関心の引き方」を覚えるから、社会の中で生きづらくなる。
相手の関心を引く健全な態度は、
「ねぇねぇ、ちょっと話を聞いてくれない?」
とか、
「ねぇねぇ、一緒に遊ばない?」
みたいに普通に声をかけたらいいだけ。
そんだけでいいんだけど、それをやっても親は承認欲求に憑りつかれてて、ずっと理想の子ども像や世間の方ばっかり向いてる。
「これじゃダメだわ、親は振り向いてくれない」
って思って、別の方法を試し始める。
それが、さっき書いた、
「不適切な行動」
です。
普通にしてダメなら、
褒められようとする。
褒めてもらえないなら、
せめて叱られよう。
叱られようとしてダメなら、
権力闘争をしかけて、親を負かそうとします。
親に勝てないなら、親を傷つけようとします。
それでもダメなら、もう期待するなと、無気力になります。
こういう5段階でエスカレートしていきます。
承認欲求によって、親が「目の前の子ども」ではなく、「理想の子ども」や「世間」ばっかり見ていると、子どもはどんどんややこしい問題を引き起こしていくんです。
それも全て、
「僕を(私を)認めて!」
って言ってるだけなんです。
さて、じゃあ、なんで、親は
「承認欲求」
なんて持つんでしょうか?
答えは簡単。
親も、
「今のままの自分で認められるわけがない」
と思って、
「認められようとがんばっているから」
です。
親が、他者から認められようとするがんばりの中に、
「子育て」
も含まれてるんです。
「俺が(私が)子どもを立派に育てあげれば、きっと認めてもらえるはずだ」
誰に?
「お母さんに」
です。
自分が、ありのままの自分では、親に認めてもらえなかったんだよね。
それって、子どもからしたら、めちゃくちゃ悲しいことです。
親から認められないなんて、どうやって生きていけばいいか分からないし、
自分の居場所が無いような感じがしたり、
めちゃくちゃ不安になったり、
怖くなって逃げ出したくなったり、
時に、認めてもらえないことに怒りを感じたりしたでしょう。
「親から認めてもらえない」
っていうのは、子どもからしたら、めちゃくちゃ辛いことです。
その辛さを、親自身も子どもの頃から味わってきたんだよね。
それで、
「認めてほしい!」
って思って、一生懸命がんばったり、親に反発したりしてきたんだよね。
そのがんばりは素晴らしいものだし、
親に反発したくなるほど、苦しかったんだよね。
その気持ちにすら気付いてもらえなかったりして、辛かったんだと思う。
親に認めてもらえなかったかもしれないけど、
せめて、
自分だけは、そんな気持ちを味わってきたこと、
本当は、親に認めてほしかったんだ、ってこと、
それを認めてあげてほしいんだよね。
自分で自分を抱き締めてあげてほしいの。
「もう、いいんだよ」
「もう十分がんばってきたじゃないか」
「お前はすごいよ」
って。
誰からも認めてもらえなくても、自分だけはいつでも「ありのままの自分」を認められる。
せめて、自分だけでもいいから、
「これまでがんばってきた自分」
「これまで辛かった自分」
を認めてあげてほしいし、
「ありのままの自分」
も認めてあげてほしい。
もう、自分を許してあげてほしい。
いきなりは無理でも、少しずつでもいい。
子どもをコントロールしようとするのって、まだ自分のことを諦めていないからだと思うんだよね。
今まで散々傷ついてきた自分がいるんだけど、
「それでも、今度こそは!」
って子育てで挽回しようとしてる。
その意欲は、ぜひ子どもではなく、自分に向けてほしいんだよね。
まだ自分を諦めるには、人生の折り返し地点だとしても、早すぎる。
自分を挽回するいは、遅すぎるということはない。
今からでも、全然いける。
子どもに制限をかけてる暇があったら、
自分にかかってる制限を解放していこうぜ。
きっと、まだまだ色んなことできるはずだから。
自分の可能性を信じて、やりたかったこと、やってみよう。
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