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超宗教

超宗教

『地上天国』6号、昭和24(1949)年7月20日発行

 本教のモットーとする、病貧争絶無の世界、地上天国建設などという事は、まず大抵の人は痴人の夢としか受取れないであろう。なる程キリストは、「天国は近づけり」といったが、天国を造るとは言わなかった、釈尊は「仏滅後弥勒の世が出現する」とは言ったが、それは五十六億七千万年後という箆棒(べらぼう)に長い年月後を言ったが、弥勒の世は目前に迫っているとは言わなかった。猶太(ユダヤ)教徒がメシヤ降臨を祈願してはいるがそれはいつだか判らない。印度(インド)における古来からの伝説、転輪菩薩の出現も、天理教の甘露台の世も、日蓮の唱えた義農の世も、大本教祖の唱えた松の世も、時をはっきりさせなかったという事を深く考えてみなければならない、以上のいずれの予言をとってみても立派に役立っては来たが、さらばといって実行の宣言も実現の企画もなかったという事は時期尚早のためと解すべきである。そうして、それら各宗祖によって説かれたり実践された事が基礎となって、今日あるがごとき各派の宗教となった事は誰もが知っている通りである。
 もちろん全世界の各民族や国家に適合すべく、教義の建前、形式、方法等、各宗祖が創成し弘通(ぐつう)させたのであって、その時代その地域その民族その伝統その習慣等に、必要当はまるべき手段方法等を、主神の意図の下に行わしめ給うた事は言うまでもない。その力によって今日のごとき絢爛たる文化の発展もあり得たのである。もし世界各国に仮に宗教なるものが生れなかったとしたら、世界は悪魔の横行はその度を知らず、世界はすでに破壊滅亡していたかも知れないのである。それこれを考える時、今日まで輩出した宗祖聖者等の功績はいかに高く評価しても決して過ぎる事はないであろう。
 前述のごとく、既存の宗教の力が世界の滅亡を喰い止め得たとしても、今日及び今日以後の世界に対し、その力が続いて役立つであろうかは疑問である。何となれば現在の世界人類がいかに地獄的苦悩に喘ぎつつあるかでこれらをして天国的状態にまで飛躍させるには、既存宗教の力では困難である事は、現在を救うにさえ力足りない有様はそれをよく物語っている。事実今日の輝かしい文化の恩恵に浴し得るものとしては、限られたる一部の民族であるに鑑(かんが)みても明らかである。そうして今日人類の悩みは余りに和の精神に乏しく、あまりに闘争の犠牲になり過ぎる事である。
 以上のごとく現在の世界を観察する時、どうしてもこれら無明暗黒を解消すべき一大光明が表われなくてはならない時期と心ある者は期待せずにはおられない、すなわち超宗教的救いの力である。
 吾らはこの意味において、超宗教としての任を負わされたものとの自覚によって着々実行をもって驚異すべき成果を挙げつつあるのである。

超愚

超愚

『栄光』229号、昭和28(1953)年10月7日発行

 この題を見たら随分変な題と思うだろうが、これより外に言いようがないから付けたのであって、言い換えれば超馬鹿である。従ってこれを読むに当っては、既成観念を全部捨ててしまい、本当の白紙になって読まれたいのである。しかも今日智識人程そうであるから始末が悪いと思う。例えばダイヤモンドと思って長い間珍重していた宝石が、実は石の欠片(かけら)と同様なお粗末なものであったからで、これが分ったなら唖然として腰を抜かすであろう。前置はこのくらいにしておいて、さて本文に取掛るが、まず病気と薬との関係である。今日誰しも病気に罹(かか)るや、薬の御厄介になる。恐らくこの際何らかの薬を服まない人は一人もないであろう。もちろん薬を服めば治ると思うからで、この考え方は随分古い時代から、人間の常識とさえなっているのである。
 そこでこの事について今まで何人(なんぴと)も思ってもみなかった意外な事を以下かいてみるが、それには充分心を潜めて読めば、至極簡単に分るはずで、難しい事は少しもないが、何しろ長い間の迷信が災して、分りそうで分らないのである。そこでいとも平凡な説き方をしてみるが、それはこうである。例えば普断至極健康で働いていられたのは、薬を出来るだけ服んでいたからで、それがたまたま懐(ふところ)都合が悪くなったりして薬を買う事が出来ず、一時服む事を休めざるを得なくなった。言わば薬が切れたのである。そこで今まで健康を維持していた薬が止まった以上、病気が起ったのであるから、早速無理算段しても、命には代えられないから、金を作り、薬を買い、からだへ入れたところ、たちまち快くなったので、ヤレヤレと胸を撫で下したというようなものである。これはちょうど一度か二度食事を抜いたため腹が減り弱ったので、早速食事をしたところ、たちまち元気快復して働けるようになったと同様な訳である。
 これだけ読んだら、誰でも分ったような分らないような、不思議な気持になるだろう。ところが今日世の中の全部の人がそんな変な事を行っていながら、当り前の事として気が付かないのである。そうかと思うとよく自分は健康だから薬を服まないと自慢している人もあるが、これも可笑(おか)しな話となる。薬を服まないで健康であるという事は、最初にかいた薬を服むから健康だという事とは全然矛盾する。またこういう事も沢山ある。それは年中薬を服みつつ病気ばかりしている人である。これも可笑しな話で、薬で病気が治るとしたら、薬を服む程健康になるから、いい加減で止めてしまうのは当然で、何を好んで高い金を出して不味(まず)いものを服む必要があろうか。
 今一つの分らない話は、世間には健康だから薬を服まない。薬を服まないから健康だという人と、その反対に弱いから薬を服む。薬を服むから弱い、という人との二通りあるのが事実で、むしろ後者の方がズッと多いであろう。としたら右の二様の解釈はつかないのはもちろんである。なぜなればこの説明が出来るくらいなら、病気は医学で疾(と)うに解決されているからである。この解釈こそ私の方では何でもない。それは医学で治らない病人がドシドシ治るのであるから、これが何よりの証拠である。それを説明してみれば実に簡単明瞭である。すなわち薬が病気を作り、薬をやめれば病気が治る。ただそれだけである。
 以上によってみても分るごとく、今の世の中は薬で病が治るとする迷信で、高い金を費(つか)って病気を作り、悪化させ、苦しんだ揚句(あげく)命までフイにしていながら、それに気がつかないどころか、反って満足しているのだから馬鹿どころではない。馬鹿を通り越して言葉では言い表わせない。それは昔からこれ程の馬鹿はないから、言葉が生まれていなかったのであろう。そこで止むなく超馬鹿では耳障(みみざわ)りと思うから、超愚とかいた次第である。このような訳で私が医学の蒙(もう)を分らせるのには、普通のかき方では、迷信のコチコチ頭を打ち砕く事は難しいので、これでもかこれでもかと色々工夫して、新熟語を考え、目を廻すような鉄拳を喰(くら)わし救うので、この文がそれと思って貰えばいい。

超科学

超科学

『栄光』222号、昭和28(1953)年8月19日発行

◇左の稿は目下執筆中の、医学革命の書中の一節である。

超科学

 私は先日ラジオで、最近帰朝した湯川博士を囲んでの、座談会の録音を聴いたが、それによると最近科学の方でも、余程私の説に接近して来たようで、喜びに堪えない次第である。それによれば素粒子論に対して、物性論という新しい説を話されたが、それは素粒子は目に見える粒子であり、物性論は目に見えぬ原子をいうらしいが、もちろん前者は実験物理学であり、後者は理論物理学であるから、これこそ私が唱えている前者は体であり、後者は霊という事になる。としたらようやく科学も吾々の方へ鞘(さや)寄せして来た訳である。
 これについて従来から理論物理学者が新説を立てる場合、想像、推理、仮定が基本となり、実験に移るのであるが、湯川博士の場合もそうで、初め新発見の中間子(素粒子)にしても、幸い米科学者が実験中、宇宙線撮影の際偶然発見され確認されたので、その功績がノーベル賞授与となった事は衆知の通りである。ところがそれに一歩前進した理論が右の物性論であり、この研究が現在主眼となっているようだ。しかしながらこれが実験によって確認されるまでには、まだ相当の迂余曲折(うよきょくせつ)を経なければならないと共に、事によると意外な難関に逢着(ほうちゃく)するやも知れないと思うのである。というのは現在の顕微鏡がそこまで発達するには容易ではないからで、そうかといって仮にこの物性子が実験によって把握されたとしても、それだけでは何ら意味をなさない。要はそれが人類の福祉にどれだけ貢献されるかである。ところがこれに対して科学では夢想も出来ない重点がある。それは現在以上科学が進歩するとすれば、吾々が常に唱えている霊の圏内に飛込んでしまうからである。霊の圏内とはもちろん宗教であるから、そうなると当然科学の分野から離れてしまい宗教に隷属(れいぞく)する事となる。という訳で唯物科学の現在は進歩の極致に達し、今や壁に突当らんとする一歩手前にまで来たと言える。従って壁を突き破るとしたら、顕微鏡の能力を今より数倍以上、数十数百倍にも引上げなければならないかも知れないがそれは無理である。よしんばそれが可能としても、何世紀かかるか見当はつかないであろう。以上によって考えてみても、今後の世界は科学でも哲学でも既成宗教でもこれ以上の進歩は至難とみねばなるまい。この意味においていよいよ現在文化のレベルから超越したX(エックス)が現われる時が来たのである。このXの一大飛躍によって現在のごとき行詰り文明の一大危機を打開し驚嘆すべき新文明を創造するのであって、それが私の使命である。
 次に素粒子論と物性子論について一層深く掘下げてみよう。そうして私の唱えている素粒子とは物質を構成している細胞のごときものであり、それは物と霊子との結合である。換言すれば前者は陰子であり、後者は陽子である。これがあらゆる物質の本体であるが、今日までの科学はそこまでは未発見であった。ではこのような高度の科学理論に対し、私のような浅学の者がなぜ発見出来たかというと、もちろん主神(すしん)が必要によって私に教えられたのであるから、私は史上何人(なんぴと)も知り得なかった万有の真理を会得したと共に、実験科学的にその実証を示す力をも与えられたのである。それがこの著の付録である治病実績報告であって、もちろん多方面の信徒から寄せられたものである。なお言いたい事は宗教にしろ科学にしろ、最も貴重なる人間の生命を救い得るとしたら、これ以上の福音はあるまい。今その原理を詳しく説明してみよう。
 言うまでもなく人間は万物の霊長であり、地球の王者であり支配者でもあり、天地間一切の万有ことごとくは、人間のために必要な存在であって、第一は人間の生命を保持し、第二は一人一人の使命を援助しているのはもちろんである。という訳で生命力をより旺盛に、健康で活動出来るようになっているのが人体である。としたらたまたま健康が害(そこ)ねられ、生命を脅かすものとして病気なるものが発生した以上これを排除すべき作用が起るのは当然であって、何ら不思議はない。考えるまでもなく他の条件がいかに具備しても不健康である限り、人間使命の遂行は出来ないからである。この意味において科学でも宗教でも何でもいい、病さえ解決するものなら、それが真の科学でもあり、宗教でもある。としたら現在までの宗教も科学も遺憾ながらその能力がないから、真の科学でも真の宗教でもない事は分り切った話である。としたら正直にいって現在までの文明は仮のものであって、本当のものでない事は余りにも明らかである。

(注)
鞘寄せ(さやよせ)、相場の変動によって値段の開きが小さくなること。