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諦めを説かない宗教

諦めを説かない宗教

『栄光』235号、昭和28(1953)年11月18日発行

 今まで宗教という宗教は、残らずといいたい程その根本は諦(あきら)める事の教えである。これを解剖してみると、諦めの根本は色々な苦しみに遭(あ)いながら解決する事が絶対不可能であるからで、せめて精神的なりともその苦しみから逃れたいという希望に応(こた)えてくれるものが、すなわち諦めという一種の逃避手段であろう。つまりそれ程苦しみを解決出来る方法は絶無であるからである。一例を挙(あ)げれば病気、災難にしても、人間の理屈でも努力でも解決が出来ないので、昔は宗教に求めたが、それでも駄目なので諦めを説いたのである。ところが近代に至って科学が生まれ、素晴しい力を発揮したので人間はこれによってこそ、諦めなくとも解決が出来ると信じてしまったのである。
 ところが事実は案に相違で、なるほど物質的にはある程度希望を満足させてくれたが、深い根本的のものに至っては、解決出来そうにみえて、その実不可能という事が沢山ある事も漸次分って来たのであって、現在は一種の懐疑時代といってよかろう。

正義感

正義感

『栄光』240号、昭和28(1953)年12月23日発行

 今更こんな事を言うのは、余りに当り前すぎるが、実をいうとこの当り前が案外閑却されている今日であるから、書かざるを得ないのである。それはまず現在世の中のあらゆる面を観察してみると、誰も彼も正義感などはほとんどないといってもいい程で、何事も利害一点張りの考え方である。という訳でたまたま正義などを口にする者があると、時勢後れとして相手にされないどころか、むしろ軽蔑されるくらいである。ではそのようにして物事が思うようにゆくかと言うと、意外にもむしろ反対であって、失敗や災難の方が多く、それを繰返しているにかかわらず、これが浮世の常態として、別段怪しむ事なく、日々を無意識に送っているのが今日の世相である。
 ところがこれを吾々の方から見ると、立派に原因があるのであって、ただ世人はそれに気が付かないだけの事である。では一体原因とは何かと言うと、これこそ私の言わんとするいわゆる正義感の欠乏である。というのは多くの人は絶えず邪念に冒(おか)され、魂が曇り、心の盲となっているため見えないのである。これについて私は長い間あらゆる人間の運不運について注意してみていると、それに間違いない事がよく分る。では正義感の不足の根本は何かというと、すなわち眼には見えないが、霊の世界というものが立派に存在しているのである。そうしてその霊界には神の律法というものがあって、人間の法律とは異(ちが)い厳正公平、いささかの依怙(えこ)もなく人間の行為を裁いているのである。ところが情ないかな人間にはそれが分らないためと、また聞いても信じられないためとで、知らず識らず不幸の原因を自ら作っているのである。
 そんな訳で世の中の大部分の人は、口では巧い事を言い、上面(うわつら)だけをよく見せようとし、自分を実価以上に買わせようと常に苦心しているが、前記のごとく神の眼は光っており、肚(はら)の底まで見透かされ、その人の善悪を計量器(はかり)にかけたごとく運不運を決められるのであるからどうしようもない。ところがこんな分り切った道理さえ、教養の低い一般庶民ならいざ知らず、教養あり、地位名誉あるお偉方でさえ分らないのは、全く現界の表面のみを見て、肝腎な内面にある霊界を知らないからである。それがため彼らはない智慧を絞って世を偽り、人を瞞(だま)す事のみ一生懸命になっており、これが利口と思っているのであるから哀れなものと言えよう。その証拠には結果はいつも逆で、巧くゆかない事実に気が付かず、上から下までその考え方になっているため、犯罪者は増え、社会不安は募(つの)るばかりである。従って今日の社会で何かやろうとしても、邪魔が入り、失敗し、骨折損の草臥儲(くたびれもう)けとなる事が多いどころか、中には新聞種にされたり、裁判沙汰になる人さえ往々あるのである。
 私はこれらの人達を、賢い愚昧族(ぐまいぞく)と思い何とかして目醒めさせたいと骨折っているが、それには神の実在を認識させる外にないのであるがこれがまた非常に難かしい。というのは知らるる通り、現在指導者階級の人程、無神思想をもって文化人の資格とさえ思っているのだから、本当に分らせるにはどうしても機会を作って奇蹟を見せる事である。という訳で私は神から与えられた力を行使し、現在驚くべき奇蹟を現わしつつあるので、近来ようやく社会に知れて来たようで喜んでいる次第である。そうして以上の理を一層徹底すればこういう事になる。すなわち正義そのものが神であり、邪悪そのものが悪魔であり、神即正義、邪悪即悪魔であると共に、神は幸福を好み、悪魔は不幸を好むのが本来であるから、幸不幸は人間の考え方次第であるから、この真理を肚の底から分るのが根本である。
 以上の理によって、正義感を基本としなければ幸福を捕える事は絶対出来ない、という訳で悪程損なものはないのである。私は「愚かなる者よ、汝の名は悪人なり」と常に言っているくらいで、この理が分りさえすれば、今からでもたちまち幸運街道驀進(ばくしん)者となるのである。ただしこれには一つの条件がある。それは単に正義といっても二通りある。一つは個人の利益を本意とする小正義と、社会国家を主とする中正義と、そうして世界人類を主とする大正義とである。ところが小と中は真の正義ではなく偽正義であり、大正義こそ真の正義である。例えば親に孝、君に忠は、煎じ詰めれば利己本位である以上偽正義である。この間の戦争にしても、日本が負けたのは日本だけの利益を主とした偽正義であったからで、どうしても世界全体の利益を目的とする大正義でなければ、永遠の栄えをもたらす事は出来ない。これが真理である。もちろん宗教にしても同様な事が言える。彼の仏教やキリスト教のごとき大宗教が、今日衰えたというのは、大正義に見えても実はある程度の欠陥があったからで、それが今まで分らなかったのである。
 ところが我救世教に至っては、信者も知るごとく、病貧争絶無の地上天国をモットーとしている以上、人類全体の利益が本意であるから、真の大正義の実行者である。

観音信仰

観音信仰

『地上天国』3号、昭和24(1949)年4月20日発行

 人間生活において何事もそうであるが、特に観音信仰においては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。円転とは丸い玉が転がるという意味であるから、角があっては玉が転がらない。世間よくあの人は苦労人だから角が除れてるというが全くその通りである。ところが世の中には角どころではない、金平糖のような人間がいる。こういうのは転がるどころか、角が突っかかってどうにもならない。そうかと思うと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。それも自分だけならまだいいが、他人までもその型の中へ押込んで苦しませるのをいいと思う人があるが、これらは小乗的信仰によくある型で、いわゆる封建的でもある。こういうやり方は信仰の上ばかりではない、社会生活においてもカビ臭くて、鼻もちがならない。
 そうして自由無碍という事は型や枠を造らない、戒律もない、天空海かつ〔闊〕の自由で、無碍もそういう意味である。ただ自由といってもわがまま主義ではない、人の自由も尊重する事はもちろんである。
 観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違う点がある。しかし戒律信仰は、戒律が厳しいから仲々守れない、止むなくつい上面だけ守って蔭では息つきをやるという事になる。つまり裏表が出来る訳でそこに破たんを生ずる。と共に虚偽が生れるから悪になる。この理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。それに引換え大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で裏表などの必要がない。従って、虚偽も生れないという訳で、これが本当の観音信仰であり、有難いところである。
 また小乗信仰の人は不知不識(しらずしらず)虚偽に陥るから衒(てら)いたがる、偉くみせたがる、これが臭気芬々(ふんぷん)たる味噌になってはなはだ醜いのである。そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。小人というのはこういう型の人である。
 またこういう事がある。私は普請をする時にはいつも職方と意見が異(ちが)う。どういう訳がというと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべてが謙遜となり、奥床しく見えるから、そういう人は心から尊敬されるようになる。ゆえに観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。

(注)
天空海かつ〔闊〕(てんくうかいかつ)人の度量が、空や海のように大きいこと。