悪に対する憤激
悪に対する憤激
『地上天国』21号、昭和26(1951)年2月25日発行
つくづく、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮(こうふん)する人は割合少ない。察するに、悪に対しいくら憤激したところで仕方がない、しかも別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、それでなくてさえ、この世智辛(せちがら)い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。それが利口者と思うらしい。しかも世間はこういう人を見ると、世相に長けた苦労人として尊敬するくらいだから、それをみて見倣(なら)う人も多い訳である。
また、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭(かしら)だった人が贈収賄、涜職(とくしょく)事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、このままでは済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係などもまことに冷たくなったようだ。税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)も酷過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。その他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。これらことごとくはもちろん、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても、前途のごとくいわゆる利口者が多すぎるためであろう。しかしよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。いつの時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、まず学校を出て一度社会人となるや、実際生活にぶつかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随って考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感などは心の片隅に押し込めてしまい、実利本位で進むようになる。こうなるとともかく一通りの処世術を会得した人間という事になる。
これらももちろん、悪いとは言えないが、こういう人間が余り増えると、社会機構は緩み勝となり、頽廃(たいはい)気分が瀰漫(びまん)し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、まず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確(しっ)かりしている訳だが、しかし単なる憤激だけでは困る、ややもすれば危険を伴い勝だからである。事実青年などがとかく血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別なやり方は避けると共に、人のため、社会のため、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。これについて私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、その心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。しかしこの我慢は仲々苦しいが、これも修業と思えば左程でなく、また魂が磨かれるのももちろんである。この点今日といえども変らないが、これも神様の試練と思って忍耐するのである。このような訳で理想としては、不正に対し憤激がおこるくらいの人間でなくては、役には立たないが、ただそれを表わす手段方法が考慮を要するのである。すなわちいささかでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、くれぐれも注意すべきで、どこまでも常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。
(注)苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)年貢・税金などをむごくきびしく取り立てること。
『地上天国』21号、昭和26(1951)年2月25日発行
つくづく、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮(こうふん)する人は割合少ない。察するに、悪に対しいくら憤激したところで仕方がない、しかも別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、それでなくてさえ、この世智辛(せちがら)い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。それが利口者と思うらしい。しかも世間はこういう人を見ると、世相に長けた苦労人として尊敬するくらいだから、それをみて見倣(なら)う人も多い訳である。
また、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭(かしら)だった人が贈収賄、涜職(とくしょく)事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、このままでは済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係などもまことに冷たくなったようだ。税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)も酷過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。その他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。これらことごとくはもちろん、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても、前途のごとくいわゆる利口者が多すぎるためであろう。しかしよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。いつの時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、まず学校を出て一度社会人となるや、実際生活にぶつかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随って考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感などは心の片隅に押し込めてしまい、実利本位で進むようになる。こうなるとともかく一通りの処世術を会得した人間という事になる。
これらももちろん、悪いとは言えないが、こういう人間が余り増えると、社会機構は緩み勝となり、頽廃(たいはい)気分が瀰漫(びまん)し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、まず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確(しっ)かりしている訳だが、しかし単なる憤激だけでは困る、ややもすれば危険を伴い勝だからである。事実青年などがとかく血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別なやり方は避けると共に、人のため、社会のため、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。これについて私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、その心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。しかしこの我慢は仲々苦しいが、これも修業と思えば左程でなく、また魂が磨かれるのももちろんである。この点今日といえども変らないが、これも神様の試練と思って忍耐するのである。このような訳で理想としては、不正に対し憤激がおこるくらいの人間でなくては、役には立たないが、ただそれを表わす手段方法が考慮を要するのである。すなわちいささかでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、くれぐれも注意すべきで、どこまでも常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。
(注)苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)年貢・税金などをむごくきびしく取り立てること。
悪に勝つ
悪に勝つ
『栄光』100号、昭和26(1951)年4月18日発行
由来(もとより)、昔から宗教なるものは、絶対無低抗主義を基本として発達して来たものであって、彼の世界的大宗教の開祖キリストさえ“右の頬を打たれれば、左の頬を打たせよ”と言われた事や、またキリスト自身がゴルゴタの丘において、十字架に懸けられた際、隣の柱に縛られていた一人の泥棒があったが、彼はキリストにいった“オイ、イエスよ、お前は先程から何か口の中で唱えながら、悲しそうな面をしているが多分お前を罪人にした奴が憎いので、呪っていたのであろう”するとキリストは“イヤ、そうじゃない、俺は俺を讒言(ざんげん)した人間の罪を、赦されたいと父なる神に祈っていたんだ”と言ったので、泥棒は唖然としたという有名な話があるが、これらをみても、キリストはいかに大きな、愛の権化であったかが判るのである。
また、釈尊にしても、提婆(だいば)の執拗なあらゆる妨害に対して、仏道修行と解釈したのであろう、何ら抵抗的態度に出なかったようである。右のごとく二大聖者でさえ、そのようであったから、その流れを汲んだ幾多の聖者や開祖も、そうであったのはまことに明らかである。ただ一人日蓮のみは反対であって、彼の燃ゆるがごとき闘争心は、行過ぎとさえ思われる程であった。彼の有名な、念仏無間(むげん)、禅天魔、真言亡国、律(りつ)国賊なるスローガンにみても、その排他的信念のいかに旺盛であったかは、吾らといえども、賛成し兼ねるところである。
以上のごとき例によってみるも、確かに神の愛、仏の慈悲は、人々の心を捉え、それが敬仰(けいぎょう)の原(もと)となっているのは、言うまでもないが、その結果を批判してみると、一概にはその是非を決めかねる、というのは、釈尊やキリスト没後、二千有余年も経た今日、なお邪悪は依然として減らないどころか、むしろ殖える傾向さえ見らるる事である。善人が悪人に苦しめられ、正直者は馬鹿をみるというような事実は、昔から今に至るまで更に衰える事なく、文化の進歩と、この事とは全然無関係であるとさえ思えるのである。ただ文化の進歩によって、悪の手段が巧妙になったまでで、その本質に至っては、いささかも違うところはない。現在としては法の制裁の場合、僅かに暴力が伴わなくなったのみである。しかしそれだけ事柄によっては、深刻性が増したとも言えるのである。
それはともかくとして、なぜ邪悪は根絶しないかという事を、よく考えてみなくてはならない。言うまでもなくその根本は、善が悪に負けるからである。それがため悪人はいい事にして、善人を絶えず苦しめようとする。何よりも彼ら悪人は、善人を非常に甘くみる。想うに彼らの心情は、善人なんて者は至極愚かで、意気地なしに決っているとして軽蔑しきっている。また善人の方でも、悪人には到底勝てない、なまじ抵抗などすると、思いがけない迷惑を蒙(こうむ)ったり、危害を加えられたりする。だから温和しく我慢して済ましてしまうに限る。その方がいくら得だか判らない、というように諦めてしまう。そんな訳で悪人は益々つけ上り、毒牙を磨き法に引っ掛らない限りの、悪を逞(たくま)しくするという、これが目下の社会状態である。
右に述べたところは、個人に関したものであるが、一層怖るべきは、官憲やジャーナリスト達の悪である。先頃私が経験した事件によってみてもそうであって、これは法難手記に詳しくかいてあるから、読んだ人は判っているであろうが、官憲が法律という武器を思うまま振り廻して、武器を持たない人民を苦しめる事である。何しろ法の濫用によって、人民は罪なくして被告にされるのはたまらないから、彼らの感情に訴え、少しでも軽くして貰いたいと希(ねが)うのである。そのような訳で弁護人にしても、検察官の感情を害しないよう、心証をよくするようにと、吾々に対してもよく注意するのである。また上申書をかく場合といえども、その文章の中に、哀訴歎願的言葉を混えなければならないのである。これらによってみても、吾々が普段考えていたところの、司法官は法を重んじ公平なる裁きをするものと、想像していた事の、いかに思い違いであった事を知ったのである。少し言い過ぎかも知れないが調官のやり方を見ると、法以外自己の面目や感情などが、割合微妙に働いている事を知ったのである。
次に言いたいのは、ジャーナリスト諸君である。彼らは独善的判断の下に、ほとんど傍若無人(ぼうじゃくぶじん)的にかき立てる、その場合真実と異(ちが)うが異うまいがお構いなしで、ただ興味本位を中心に、人に迷惑が掛かろうが、損害を与えようが一向無関心である。誰かが言った、新聞は二十世紀の暴君とは、満更間違ってはいないように思われる。常に口には民主主義を唱えながら、事実は言論の暴力者である、というその原因は全く言論に対しては、厳しい制裁がないからであろう。右のような訳だから、先年本教が新聞のデマ記事で度々攻撃を受けた場合「物識(ものしり)というような人々は、どんな事をかかれても反抗するのは損だから、マアー我慢して泣寝入りにした方が得ですよ。特に大新聞などに逆らうと、どんな目に遭わされるか判らないから温和しくするに限りますよ」とよく注意を受けたものである。
以上、私は個人の場合と、官憲と新聞との三つをかいたが、このどれもが悪が善に勝つという見本である。そんな訳で常に被害者は、我慢、泣寝入り、損をしたくない等の利害を先にして、無抵抗に終るのであるから、彼ら邪悪者は益々跋扈(ばっこ)し、止どまるところを知らない有様である。これではせっかくの法があっても、法としての威力は大いに減殺され、人民はいつも被害者となるのであるから、困った社会である、としたら、いつになったら、善人が安心して住める世の中になるか、実に心細い限りである。ここにおいてたとえ宗教家たる我らといえども、常に唱えているごとく、善が悪に負けてはならない。悪に負ける善は真の善ではなく、意気地なし以外の何物でもないと、警告するのである。
特に、彼らが宗教家に対する場合、どうも普通人と区別して観る。宗教家は無抵抗主義であるから、どんなに虐めても大した事はないと、頭からなめてかかる。ここに宗教の弱さがある、というよりも弱いものと決められている事である。従ってどうしてもこの彼らの、サタン的観念を払拭(ふっしょく)しなければならないのはもちろんで、この意味において大いに悪と戦わねばならない。何よりも以前大新聞が本教を旺んに攻撃した時も、本教は決して恐るる事なく、飽くまで本教機関紙によって、彼らの邪悪と戦ったが、諸君も知っているであろう。このような訳であるから、吾らはいかに大なる力を持って押潰そうとしても、敢然(かんぜん)として先方が反省するまで戦うのである。これが真の神の御意志でなくて何であろう。
従って、悪は到底善には敵わないから、悪を捨て善に改める方が得策であると覚らす事で、これが生きた宗教のあり方であろう。これを大きく考えてみるとなおよく判る。彼の米国が武力侵略国に対し、悪では成功しないという事を覚り、諦めさせなければ、世界平和は出現しないとして、今日国力を傾けて諸国家を援助しているのと、理屈は同じである。私はこの主義をもって、今日まで一貫して来たので、決して不正には負けない信念である。一例を挙げてみると、私が被告になって、以前から続いている土地問題の係争事件があるが、驚くなかれ今年でちょうど十四年目になるが、まだ片がつかない。何しろ書類を積み重ねた高さが一尺以上あるので、裁判官が代る毎に、それを最初から読まなければならないから、裁判官も辟易(へきえき)してしまい極力示談を勧めているが、私は元々不正に対して戦うのだから、利害は第二として、先方が自己の非を覚り、正しい条件を持って来れば直にも応ずるが、そうでなければ決して和解をしないのである。以上長々と述べたが、ここで結論を言えば、宗教本来の目的は、善を勧め悪を懲らすにあるのであるから、決して悪には負けてはならないのである。何となれば善が勝っただけは悪が減るのであるから、それだけ社会はよくなるという訳で、かくして地上天国は生まれるのである。
(注)
提婆、提婆達多(だいばだった)
釈迦の従弟。大変有能な人物であったが、逆恨みから釈迦とその教団に執拗な嫌がらせをした。
『栄光』100号、昭和26(1951)年4月18日発行
由来(もとより)、昔から宗教なるものは、絶対無低抗主義を基本として発達して来たものであって、彼の世界的大宗教の開祖キリストさえ“右の頬を打たれれば、左の頬を打たせよ”と言われた事や、またキリスト自身がゴルゴタの丘において、十字架に懸けられた際、隣の柱に縛られていた一人の泥棒があったが、彼はキリストにいった“オイ、イエスよ、お前は先程から何か口の中で唱えながら、悲しそうな面をしているが多分お前を罪人にした奴が憎いので、呪っていたのであろう”するとキリストは“イヤ、そうじゃない、俺は俺を讒言(ざんげん)した人間の罪を、赦されたいと父なる神に祈っていたんだ”と言ったので、泥棒は唖然としたという有名な話があるが、これらをみても、キリストはいかに大きな、愛の権化であったかが判るのである。
また、釈尊にしても、提婆(だいば)の執拗なあらゆる妨害に対して、仏道修行と解釈したのであろう、何ら抵抗的態度に出なかったようである。右のごとく二大聖者でさえ、そのようであったから、その流れを汲んだ幾多の聖者や開祖も、そうであったのはまことに明らかである。ただ一人日蓮のみは反対であって、彼の燃ゆるがごとき闘争心は、行過ぎとさえ思われる程であった。彼の有名な、念仏無間(むげん)、禅天魔、真言亡国、律(りつ)国賊なるスローガンにみても、その排他的信念のいかに旺盛であったかは、吾らといえども、賛成し兼ねるところである。
以上のごとき例によってみるも、確かに神の愛、仏の慈悲は、人々の心を捉え、それが敬仰(けいぎょう)の原(もと)となっているのは、言うまでもないが、その結果を批判してみると、一概にはその是非を決めかねる、というのは、釈尊やキリスト没後、二千有余年も経た今日、なお邪悪は依然として減らないどころか、むしろ殖える傾向さえ見らるる事である。善人が悪人に苦しめられ、正直者は馬鹿をみるというような事実は、昔から今に至るまで更に衰える事なく、文化の進歩と、この事とは全然無関係であるとさえ思えるのである。ただ文化の進歩によって、悪の手段が巧妙になったまでで、その本質に至っては、いささかも違うところはない。現在としては法の制裁の場合、僅かに暴力が伴わなくなったのみである。しかしそれだけ事柄によっては、深刻性が増したとも言えるのである。
それはともかくとして、なぜ邪悪は根絶しないかという事を、よく考えてみなくてはならない。言うまでもなくその根本は、善が悪に負けるからである。それがため悪人はいい事にして、善人を絶えず苦しめようとする。何よりも彼ら悪人は、善人を非常に甘くみる。想うに彼らの心情は、善人なんて者は至極愚かで、意気地なしに決っているとして軽蔑しきっている。また善人の方でも、悪人には到底勝てない、なまじ抵抗などすると、思いがけない迷惑を蒙(こうむ)ったり、危害を加えられたりする。だから温和しく我慢して済ましてしまうに限る。その方がいくら得だか判らない、というように諦めてしまう。そんな訳で悪人は益々つけ上り、毒牙を磨き法に引っ掛らない限りの、悪を逞(たくま)しくするという、これが目下の社会状態である。
右に述べたところは、個人に関したものであるが、一層怖るべきは、官憲やジャーナリスト達の悪である。先頃私が経験した事件によってみてもそうであって、これは法難手記に詳しくかいてあるから、読んだ人は判っているであろうが、官憲が法律という武器を思うまま振り廻して、武器を持たない人民を苦しめる事である。何しろ法の濫用によって、人民は罪なくして被告にされるのはたまらないから、彼らの感情に訴え、少しでも軽くして貰いたいと希(ねが)うのである。そのような訳で弁護人にしても、検察官の感情を害しないよう、心証をよくするようにと、吾々に対してもよく注意するのである。また上申書をかく場合といえども、その文章の中に、哀訴歎願的言葉を混えなければならないのである。これらによってみても、吾々が普段考えていたところの、司法官は法を重んじ公平なる裁きをするものと、想像していた事の、いかに思い違いであった事を知ったのである。少し言い過ぎかも知れないが調官のやり方を見ると、法以外自己の面目や感情などが、割合微妙に働いている事を知ったのである。
次に言いたいのは、ジャーナリスト諸君である。彼らは独善的判断の下に、ほとんど傍若無人(ぼうじゃくぶじん)的にかき立てる、その場合真実と異(ちが)うが異うまいがお構いなしで、ただ興味本位を中心に、人に迷惑が掛かろうが、損害を与えようが一向無関心である。誰かが言った、新聞は二十世紀の暴君とは、満更間違ってはいないように思われる。常に口には民主主義を唱えながら、事実は言論の暴力者である、というその原因は全く言論に対しては、厳しい制裁がないからであろう。右のような訳だから、先年本教が新聞のデマ記事で度々攻撃を受けた場合「物識(ものしり)というような人々は、どんな事をかかれても反抗するのは損だから、マアー我慢して泣寝入りにした方が得ですよ。特に大新聞などに逆らうと、どんな目に遭わされるか判らないから温和しくするに限りますよ」とよく注意を受けたものである。
以上、私は個人の場合と、官憲と新聞との三つをかいたが、このどれもが悪が善に勝つという見本である。そんな訳で常に被害者は、我慢、泣寝入り、損をしたくない等の利害を先にして、無抵抗に終るのであるから、彼ら邪悪者は益々跋扈(ばっこ)し、止どまるところを知らない有様である。これではせっかくの法があっても、法としての威力は大いに減殺され、人民はいつも被害者となるのであるから、困った社会である、としたら、いつになったら、善人が安心して住める世の中になるか、実に心細い限りである。ここにおいてたとえ宗教家たる我らといえども、常に唱えているごとく、善が悪に負けてはならない。悪に負ける善は真の善ではなく、意気地なし以外の何物でもないと、警告するのである。
特に、彼らが宗教家に対する場合、どうも普通人と区別して観る。宗教家は無抵抗主義であるから、どんなに虐めても大した事はないと、頭からなめてかかる。ここに宗教の弱さがある、というよりも弱いものと決められている事である。従ってどうしてもこの彼らの、サタン的観念を払拭(ふっしょく)しなければならないのはもちろんで、この意味において大いに悪と戦わねばならない。何よりも以前大新聞が本教を旺んに攻撃した時も、本教は決して恐るる事なく、飽くまで本教機関紙によって、彼らの邪悪と戦ったが、諸君も知っているであろう。このような訳であるから、吾らはいかに大なる力を持って押潰そうとしても、敢然(かんぜん)として先方が反省するまで戦うのである。これが真の神の御意志でなくて何であろう。
従って、悪は到底善には敵わないから、悪を捨て善に改める方が得策であると覚らす事で、これが生きた宗教のあり方であろう。これを大きく考えてみるとなおよく判る。彼の米国が武力侵略国に対し、悪では成功しないという事を覚り、諦めさせなければ、世界平和は出現しないとして、今日国力を傾けて諸国家を援助しているのと、理屈は同じである。私はこの主義をもって、今日まで一貫して来たので、決して不正には負けない信念である。一例を挙げてみると、私が被告になって、以前から続いている土地問題の係争事件があるが、驚くなかれ今年でちょうど十四年目になるが、まだ片がつかない。何しろ書類を積み重ねた高さが一尺以上あるので、裁判官が代る毎に、それを最初から読まなければならないから、裁判官も辟易(へきえき)してしまい極力示談を勧めているが、私は元々不正に対して戦うのだから、利害は第二として、先方が自己の非を覚り、正しい条件を持って来れば直にも応ずるが、そうでなければ決して和解をしないのである。以上長々と述べたが、ここで結論を言えば、宗教本来の目的は、善を勧め悪を懲らすにあるのであるから、決して悪には負けてはならないのである。何となれば善が勝っただけは悪が減るのであるから、それだけ社会はよくなるという訳で、かくして地上天国は生まれるのである。
(注)
提婆、提婆達多(だいばだった)
釈迦の従弟。大変有能な人物であったが、逆恨みから釈迦とその教団に執拗な嫌がらせをした。
悪銭身に着かず
悪銭身に着かず
『光』14号、昭和24(1949)年6月25日発行
昔から悪銭身に着かずという言葉があるが全くその通りである、それについて私は霊的に解釈してみよう。
投機といえば、株式相場を初め、商品の上り下り、競馬の賭等々種々あるが、その中の代表的のものとして株式相場について解釈してみるが、私も無信仰者時代には株相場に手を出し、数年間売ったり買ったりしたが、ついに大失敗をした、それが信仰生活に入る一の動機となった事ももちろんであると共に、霊的方面を知るに及んで決して為(な)すべきものではないという事を知ったのであるから、この一文を相場に関心を持つ人に対し、ぜひ読まれん事を望むのである。
相場なるものは、まず百人損をして一人儲かるという事をよくいわれるがその通りである、一時は一獲千金の儲けによって成金となっても、それが長く続く者はまず一人もあるまい、しかも大儲けをする者程大損をするものであって、儲かれば儲かる程その人の前途は断崖が口を開けて待っているようなものである、まず霊的にみればこうである、損を蒙(こうむ)った大多数者は、口惜しい残念だどうかして損を取返したいと思うのは人情である、従ってその怨みの想念がどこへ行くかというと、自分の金を吸いとった人間に行こうとするが、それはどこの誰だか判らないので、自然取引所を目がけて集注するばかりか、それが紙幣に集まるという事になるのである、この際霊眼によって見れば取引所にある紙幣の面には怨みの人間の顔が何千何万となく印画されており、その一つ一つの顔と、その本人とは霊線で繋っているから、取返そうとする想念がそれを常に引っ張っているという訳で、その紙幣は所有主の金庫には決して永く安定してはいない、いつかは引っ張られるから大損をし一文なしになってしまうのである。
右は投機ばかりではない、全銭上のあらゆる事に共通するのである、いわば不正によって得た富や与えるべき金銭を与えなかったり、故意に減らしたり、借金を返さなかったりする場合、先方は怨むから矢張り前述のごとく吐き出さざるを得ない事になるのである。
今一つ知らなければならない事は、昔から宗教上の建物が、火災のためよく灰燼(かいじん)に帰する事がある、浄財を集めて建築された清き社寺や殿堂、伽藍等が焼失するという事は不可解に思われるが実は理由がある、というのは、その基金を集める場合無理をする、例えば信徒または末寺に対し一定の額を定め強要する事があるが、これは自然ではない、信仰的献金としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当である、気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである、今一つはその建造物を利用する上においても神仏の御心にかなうようにすべきで、間違った事をしたり、汚したりするような事があってはならないに関わらず、そうでない場合火の洗霊を受ける事になるのである。
ただし、相場をとる目的でなく、金利すなわち配当をとる目的で買うのは結構であって、これは何ら怨みを買うような事にはならないのみならず、むしろ産業発展のため有要な事であって大に奨励すべきものである。
『光』14号、昭和24(1949)年6月25日発行
昔から悪銭身に着かずという言葉があるが全くその通りである、それについて私は霊的に解釈してみよう。
投機といえば、株式相場を初め、商品の上り下り、競馬の賭等々種々あるが、その中の代表的のものとして株式相場について解釈してみるが、私も無信仰者時代には株相場に手を出し、数年間売ったり買ったりしたが、ついに大失敗をした、それが信仰生活に入る一の動機となった事ももちろんであると共に、霊的方面を知るに及んで決して為(な)すべきものではないという事を知ったのであるから、この一文を相場に関心を持つ人に対し、ぜひ読まれん事を望むのである。
相場なるものは、まず百人損をして一人儲かるという事をよくいわれるがその通りである、一時は一獲千金の儲けによって成金となっても、それが長く続く者はまず一人もあるまい、しかも大儲けをする者程大損をするものであって、儲かれば儲かる程その人の前途は断崖が口を開けて待っているようなものである、まず霊的にみればこうである、損を蒙(こうむ)った大多数者は、口惜しい残念だどうかして損を取返したいと思うのは人情である、従ってその怨みの想念がどこへ行くかというと、自分の金を吸いとった人間に行こうとするが、それはどこの誰だか判らないので、自然取引所を目がけて集注するばかりか、それが紙幣に集まるという事になるのである、この際霊眼によって見れば取引所にある紙幣の面には怨みの人間の顔が何千何万となく印画されており、その一つ一つの顔と、その本人とは霊線で繋っているから、取返そうとする想念がそれを常に引っ張っているという訳で、その紙幣は所有主の金庫には決して永く安定してはいない、いつかは引っ張られるから大損をし一文なしになってしまうのである。
右は投機ばかりではない、全銭上のあらゆる事に共通するのである、いわば不正によって得た富や与えるべき金銭を与えなかったり、故意に減らしたり、借金を返さなかったりする場合、先方は怨むから矢張り前述のごとく吐き出さざるを得ない事になるのである。
今一つ知らなければならない事は、昔から宗教上の建物が、火災のためよく灰燼(かいじん)に帰する事がある、浄財を集めて建築された清き社寺や殿堂、伽藍等が焼失するという事は不可解に思われるが実は理由がある、というのは、その基金を集める場合無理をする、例えば信徒または末寺に対し一定の額を定め強要する事があるが、これは自然ではない、信仰的献金としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当である、気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである、今一つはその建造物を利用する上においても神仏の御心にかなうようにすべきで、間違った事をしたり、汚したりするような事があってはならないに関わらず、そうでない場合火の洗霊を受ける事になるのである。
ただし、相場をとる目的でなく、金利すなわち配当をとる目的で買うのは結構であって、これは何ら怨みを買うような事にはならないのみならず、むしろ産業発展のため有要な事であって大に奨励すべきものである。